Stanley Elkin, _The Magic Kingdom_

The Magic Kingdom (American Literature (Dalkey Archive))

The Magic Kingdom (American Literature (Dalkey Archive))

子供が死ぬのは悲しい。私達のいる文化において、「死に行く子供の物語」は、美しくも儚い「子供」という形象を引き継ぎ、それを強化する形で機能する。だから、「死に行く子供」を語るとき、我々は自分(大人)自身の役に立つように彼らを聖化(それは同時に性化でもある)して語ることを殆ど余儀なくされる。James KincaidやJacquine Roseの議論は、そうした語りに内在する生権力を暴きだすものだった。
そうした語りへのオルタナティヴとしてスタンリー・エルキンが提示した答えは、それを自覚的に性と金に満ちた笑劇として提示することだった。『魔法の王国』は、「子供を病で亡くした一人の男Eddy Baleが、同じように不治の病に冒された7人の子供達をディズニー・ランドに連れて行く」という「泣かせる」プロットながら、基本的にはドタバタ劇だ。寄付金を請われた英国女王は小切手に50ポンドしか書かず、しかもそれを「これで私の名前で人が集まるから、後で返してね」と告げる。彼らを引率する大人たち(看護士や医者やカウンセラー)は彼らの世話よりもナンパやオナニーに夢中になる。いきおい、子供達は互いの不和や無関心を越えて、一つの運命共同体を形成することになる。
テキストはその共同体のあり方として、①トンチン年金(共同出資者が死亡するごとにその権利を生存者に分配するもの)と②バディー方式(二人ずつが組になって互いに相手の安全に責任を持ち合う方式)を提示する。一見相反するこの二つの他者関係モデルは、子供達の間にうまれるある種の「愛」で補われる。だがエルキンはその「愛」が単にイノセントなものではないこと(彼らは既に性を知り、生き延びていくためには金銭の下支えが必要なことを知っている)を抜け目なく示唆する。その意味で、彼らの関係は作中のゲイの看護士とそのパートナーの関係―二人は互いに保険金の受取人に指定する―に予告されたものとなる。*1
かくしてテキストは、子供達の形成する共同体の自律性を示し(常に他者の目にさらされてきたハブリックな存在であった彼らが、ディズニーランドへの旅で最も魅力的に思うのは、彼らだけでいることのできるプライベートなホテルの寝室だ)、そこへの「大人」の介入が究極的に暴力的なものとなることが不可避であることを指摘する;物語終盤、Baleが妻から受け取る手紙にはこうある―「ねえエディー、まだ気がつかないの、「大人」の方が「子供」よりももっと面白いんだって?」。

*1:物語は最終的に、ゲイの看護士と「障害」のキャリアの女性の性交と、それがもたらすかもしれない「怪物」の予告で幕を閉じ、これを「身体」の問題として提示する。『魔法の王国』は基本的には「障害」の構築性についての物語と読むのが一番ベタなのではないかと思う。