Excerpt from Montag, Warren. "The 'Workshop of Filthy Creation': A Marxist Reading of Frankenstein"
Considered in this way, the work assumes a kind of coherence that in turn derives from the 'class location' of the author. Frankenstein seems to center on the emergence of the industrial working class as a political and social force, seen in the light of the French and perhaps even British revolutions by the 'progressive' artist: unable finally to identify with the proletariat and to adopt its point of view, even radicals of Mary Shelley's milieu are constrained to regard it as a monster. If Marxist criticism worked this way it would resemble a kind of decoding. The critic replaces the apparent with the real and the mythological with the historical: the monster is the proletariat. History disguised as the novel remains only to be unmasked by the reader.
But such a reading is too simple; to stop here would be to reduce the literary work to a mere allegory structured by a set of symbolic equivalences: the monster equals the proletariat. Conceived in this way the work remains out side history, which is alluded to even as it is concealed. But a Marxist reading demands a more complex conception of the work, for Marxism is above all a materialism. All that exists, including art and culture, necessarily possesses a material existence. From a materialist point of view, the literary work cannot somehow exist outside of history and even less outside of reality. It cannot be collapsed into or reduced to something 'more real' than itself, that is history. When we say that literary works are historical by their very nature we mean that history is as present in them as outside of them, that we do not leave the work in search of its historical meaning but seek the meaning of its historical existence within it.
For Marxism, history is a struggle between antagonistic social forces. Further, this struggle is inescapable: it is present in every cultural artifact, every intellectual enterprise. But the struggle is not the same throughout history, it takes many forms and involves many actors. It follows no rules and obeys no logic. Literary works are not simply expressions of some invariable, essential contradiction; they are singular, specific realizations of a struggle whose character is perpetually transformed by its own activity.
Thus, if we are to seek the signs of the historicities of the work within it, this historicity will inescapably be present in the form of a conflict. This conflict, however, is not merely or even primarily present in the content of the work, but rather in the very letter of the text. While literary works have, since Aristotle, been defined by their coherence, by their formal resolution of internal contradictions and antagonism, Marxism asks us to understand them on the basis of the specific conflicts that have generated them and that every work, no matter how apparently coherent, embodies and perhaps transforms but cannot resolve. Most often these contradictions are not what the work is about at all; instead they constitute symptomatic antagonisms that disrupt the unity that the text appears to display. From a Marxist point of view, an adequate reading of Frankenstein will therefore refrain from the enterprise of establishing correspondence between the apparently parallel worlds of literature and history and will instead seek to grasp the way in which history is present in the text as a force or motor ('class struggle is the motor of history,' as Marx and Engels wrote in The Communist Manifesto). History sets the work against itself and splits it open, forcing it to reveal all that it sought to deny but cannot help revealing by the very fact of this denial. We will begin by posing the question the answer to which we have already begun to formulate: What are the contradictions, discrepancies, and inconsistencies that the work displays but does not address or attempt to resolve?"
N.K.ジェミシン『五番目の季節』1
序章 あなたはここにいる
世界の終わりから始めよう。さっさとそれを片付けて、もっと面白いものに話を進めよう。
まずは個人的な終わりだ。これから幾日もの間、息子の死がどのようなものだったか想像し、本来的にあまりにも無意味なものを何とか理解しようと努力するにつけ、彼女が考え続けるだろうことがある。彼女はユーチの砕かれた小さな体を毛布で包み――彼は暗闇を怖がっていたから、顔は除いてーーその隣に感覚なく座り、外で終わりゆく世界に何の注意も払わないだろう。世界は彼女の中でもう終わっていたし、そもそも終わりというもの自体初めてのことではなかった。彼女はそれにもう慣れっこになってしまっていたのだ。
その時、そしてそれから後、彼女が考えていたのは、でも彼は自由だったということだった。
そして、彼女の当惑し、動揺した自己がこのほとんど疑義のようなものを何とか生み出すたびに、彼女の苦痛に疲弊した自己は答えるのだ:
そんなことはなかった。まさか。でもこれで自由になるだろう。
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けれどあなたには文脈が必要だ。もう一度、大陸規模で書かれた終わりを考えてみよう。
ここにとある陸地がある。
陸としてはよくあるものだ。山や高原、峡谷、三角州のある、普通のもの。いたって平凡だ、その規模とダイナミズムを除けば、だが。この陸地は非常によく動く。寝床に伏したものの落ち着かない老人のように、この陸地は持ち上がり、ため息をつき、しわを寄せては放屁する。当然のように、この陸地の人々はこれに「静かなる地」という名を付けた。これはひっそりとした、しかし痛烈なアイロニーの陸地なのだ。
「静かなる地」には他の名前もあった。これはかつては複数の別々の陸地であった。現在は一つの広大な裂け目のない大陸だが、将来いつの日にか一つ以上のものになるだろうとされている。
実際、それはもう間もなくのことだ。
終わりは、ある都市で始まる。現存する世界最古の、最大の、そして最も荘厳な都市。ユメネスと呼ばれるその都市は、かつてはとある帝国の中心だった。ユメネスは今でも多くのものの中心だが、この帝国は、帝国というものにはよくあるように、その最初の栄華から幾年かの間に幾らか衰退してしまっていた。
ユメネスを唯一無二のものにするのはその規模ではない。世界のこの一角では多くの大都市が、大陸のベルトのように、赤道に沿って鎖状に結ばれている。世界の他の場所では、村が町へ成長すること、そして町が都市へ成長することは殆どない。大地がそれを食べようとし続ける中で、こういった政治組織を維持することは難しいのだから…だがユメネスはその27世紀のほとんどの間安定を保っていた。
ユメネスが唯一無二である理由は、ここが人類が安全のためでも、快適なためでも、美のためでもなく、勇気のために建立したただ一つの場所だからだ。
(続く)
眠れない夜に その1
酔っていてクリティカルに本が読めないので、気になっていた本の最初だけ翻訳。
ジャクリーヌ・ローズ『不眠について』、序章「恥」。
戦争責任問題やヴェール問題のみならず、一人称小説(いわゆる私小説)においても重要なトピックとなる「恥」について。全訳ではなくところどころはしょってます。文責というかその辺の責任はLisbon22に。
(Jacqueline Rose, _On Not Being Able to Sleep_. Princeton & Oxford, Princeton UP, 2003. "Introduction: 'Shame'". pp.1-2.)
恥は観衆を必要とする。罪悪感はあなたのうちで静かにおこるが、恥は、それとは異なり、自らが見られていたと知った、あるいは恐れたときにしか起こらない。 恥は暴露のわざに依存する−−たとえそれは暴露されることを最も嫌い、これに強く抵抗するとしても。 恥には内から冒すような性質がある。 フロイトは初期の著作において、恥を恐怖と身体的な痛みと共にトラウマのひとつとしてあげた。 ひとは恥で赤くなり、恥に「溺れる」。 まるで恥は、それが服従させるセクシュアリティのように、身体をその表面に近づけすぎることにより、内臓や体液を心のダムからあふれさせるかのようだ。
恥は観衆を必要とするかもしれないが、同時に隠匿されており、人々が共有しようとするようなものではない。 誰かと限りなく親密になったときにだけ、ひとは人生で最も恥をかいた瞬間を告白する。 恥はとても尊重すべきものだが、しかし奇妙なトートロジーによって、それは自らを恥じているかのようだ。
しかしながら、恥は同時に行動であり、きわめて公的な側面をもった他動詞(恥じ入らせる)である。 誰かを恥じ入らせることはきわめて政治的営みでありえる。 これはきわめて複雑な倫理的アジェンダをもった「アウティング」のみならず(アウティングをされた公人が恥をかかせられるのは、同性愛者であるためではなくそれを隠していたためだ)、腐敗を止めることを目的とした告発も同様に恥という重要な要素をもつ。
恥をかかせることは歴史的な行いでありえ、その射程はきわめて広い。1998年のオーストラリアにおける選挙で、アボリジニーの伝統的な土地の権利主張を制限するハワードの憲法修正案に反対するデモ隊は、手で「恥」という文字を作った(その選挙はしばしば「人種」選挙、あるいは「恥」の選挙と呼ばれた)。 そして恥は集合的なものでもありえる。 ある共同体の構成員皆が謝罪することを求められた、あるいは少なくとも部分的にその必要を認めたとき、恥は公的な悔やみの一部でありえる(たとえばかつての南アフリカのアパルトヘイト受益者など)。 恥を感じるのに、かつての拷問者である必要はない(実際、拷問者は最も恥を感じそうにないだろう)。 ただ憎むべき世界に背を向けた、あるいはそれに対して十分に物事をなさなかったと感じるだけでよい。
しかし恥じいらせることは常に効果的なわけではない。 恥は論駁されることも、単に踏みつけられることもある。 オーストラリアの人権と機会平等委員会による、難民キャンプにおける人権侵害の告発を受けて、2002年2月『インディペンデント』紙は「こうした破滅的な評価によって、オーストラリアが恥じ入らせられると予期する向きもあるだろう」と述べた。 「しかしそれどころか、キャンベラ当局は同委員会を反政府的アジェンダを追及しているとして批判したのである」。 2000年、トマス・メロンは『アメリカ国際法』誌において、人権と人道法の「規範と現実」のギャップについて論じつつ、法の埒外にある価値に重きを置く教育に望みを託した−−すなわち、倫理、栄誉、慈悲、そして恥といった価値に。
したがって、恥は前後に行き来し、我々の内的世界と外的世界の境界を越えるものである。 これは、本書の多くのエッセイに通底する、ある種のリフレインである。 主に1990年代と2000年代最初の2年に書かれたこれらのエッセイは、しばしばある問いを共有する。 みずからをさらけだす人々にコミットする世界に生きることで、我々はなにを得てなにを失うのか−−公的世界、政治的世界、贖罪の世界、華やかなセレブの世界、あるいは比較的私的な詩作という形において−−、という問いを。
自転車のパンクを修理すること
自転車がパンクした、という友人のツイートをみて、ずっと忘れていた小さな出来事をふっと思い出した。 しばらく140字以上の日本語を書いていなかったので、リハビリを兼ねてこちらでかいてみる。
いうまでもなく、ある程度以上の距離を走る自転車乗りにとって、タイヤのパンク修理は必須技能だ。 これができないことは時として文字通り命にかかわるし、したがって自転車乗りは第二の天性のようにその技術を身につける。 それは理系研究者にとっての英語のようなものだ−−それ自体は彼/女のやっていることの本筋ではないにしろ、これができないと生き延びていくことができず、それゆえ彼/女は誰にいわれるともなくこの技能を身体的に習得する。
にもかかわらず、二度目の長距離自転車旅行まで、ぼくは自分でパンクをなおすことができなかった。 それどころか、ツーリングにあたってパンク修理やチューブ交換に必要な器具を携行すらしておらず、バッグに入っていたのは百円均一の携帯空気入れひとつというありさまだった。 そもそも乗っていた安物のマウンテンバイク自体ツーリング向きとは程遠く、タイヤをワンタッチで外すこともできない代物だった。
そんな調子でどうやって一度目の長距離ツーリング(神奈川〜兵庫)を乗り切ったのか、今となっては不思議でしかたがない。 おそらくただ幸運だったのだろう。 あるいは国道一号線というこのうえなく便利な道を走っていたので、パンクをしてもすぐに自転車屋がみつかったのかもしれない。ともあれ2週間弱の最初の自転車旅行では自力でパンクを直す必要に迫られることもなく、ぼくは無能なまま、今度は伊豆半島一周のツーリングへと出かけた。
それがおこったのが何日目のことだったのか、実はよく覚えていない。 天城峠を越えたあと、山道を下っていた早朝のことだったとおもう。 とにかく、ぼくの乗っていたマウンテンバイクの前輪がとつぜんパンクした。
山中だったので、当然あたりには自転車屋も郊外型DIYショップもみあたらない。 それどころか車も一時間に数回しか通らない。 朝早くだったのは不幸中の幸いだったけれど、一時的に空気を入れて無理やり走ろうにも思いのほか大きなパンクだったようで、すぐにタイヤがつぶれてしまう。 自転車を押して修理できるところを探すほかなかった。 同行の友人に謝りつつ、それから2時間近くぼくたちは自転車屋を探して山中を歩いた。
* * *
幸運なことに、ぼくたちは麓近くに小さな自転車屋を見つけた。 小さいといってもツーリングのメッカなだけあって、設備のしっかりとした自転車屋だった。 ぼくは頑固そうな店長に簡単に事情を説明し、パンク修理を依頼した。
「何をいっているんだお前」と彼は大声でぼくをしかりつけた。
ぼくはあっけにとられた。 自分がなぜしかられているのか理解できなかったのだ。 ここは自転車屋で、ぼくはパンク修理を依頼しにきた客だ。 えらぶった態度をとったつもりもなく、客としてただ当たり前にパンク修理を依頼しただけなのに、なぜ怒られなければならないのだ?
自分のなにが悪かったのかもわからない、という表情から、ぼくが完全なシロウトであることを理解したのだろう、じゃっかん和らいだ口調で彼は簡潔に述べた。 ツーリングをする人間は自分でパンクを修理するものだ。
当たり前のことだった。 自炊とは最初から最後まで誰にも手伝ってもらわず自分で料理をすることだ、ということと同じくらい、自明の理だった。 それができないでいること、にもかかわらず自転車乗りでございという顔をしていることがいかに恥ずかしいことかをぼくはようやくにして知り、痛いほど自分を恥じた。
「恥ずかしいのだけど、ぼくはパンク修理ができないのです。 次に旅行に出るときにはできるようになります。 ですが今日はこのパンクを修理してもらえませんか」とぼくはいった。
* * *
彼は優しかった。 修理を拒否したのだ。 そのかわり、店の裏にある工具置き場へぼくたちを連れていき、ノリとパッチを手渡して、自分でなおすように、とつげた。
それから車輪をはずし、外側のタイヤをはずしてチューブを抜き取り−−なれていないぼくは外タイヤ全体をはずしてしまい大きく手間がかかった−−、空気を入れたチューブを水につけて穴を見つけ、そこにパッチを貼り付けてまた元の状態に戻すのに、1時間近くの時間を要した(辛抱強い友人はその間横で待っていてくれた)。
今だったら10分とかからないその工程にそれだけの時間がかかったのは、先に述べたようにタイヤ交換に手間を要する安物のバイクだったことを差し引いても、ひとえにぼくが不慣れだったためにほかならない。 ぼくにとって自転車のタイヤとはめったにパンクしないものだったし、まれにパンクしたときには自転車屋のお兄さんに800円を払って修理してもらうものでしかなかった。 だがほんとうは違ったのだ。 タイヤとはパンクするものなのだ。 そしてパンクしたときには、汗をかき手を油だらけにして、自分で修理するものなのだ。
* * *
愛用のマウンテンバイクが走れる状態になったころ、日はとうに高くなっていた。 工具を返しお礼をいい、お金を払おうとすると、彼は(ぼくの水準からすると)明らかに安い値段しか受け取ろうとしなかった。 パッチ代とノリ代だけ、ということなのだろう。 押し問答の末、ぼくはそれ以上のお金を彼に払うことを諦め、改めて頭を下げて出発した。
自転車のパンクが修理できることは、日常の生活においてとくに大きな利益をもたらすことはない。 とくにあなたが日本の大都市に住んでいる限り、それは年に多くて数回、両手を油まみれにすることと引き換えに数百円を節約すること以上のものではない。
むろんそれはサバイバル技能などではなく、ある程度以上の金銭と健康を持った人間の、比較的一般的な趣味の領域において、ごく当たり前にできなくてはならない技術でしかない。 それは自転車に乗る人間にとってはインスタント焼きそばを作ることと同じくらい誰にでもできる当然の能力だし、自転車に乗らない人間にとっては興味の対象にすらならないものだ。
にもかかわらずぼくは、油まみれの手と引き換えにパンクをなおすことに、ある種のよろこびを感じずにはいられない。 そしてひそかに、自律の幻想と自らの手を動かす身体的快楽の混ざったこの感情は、多くの自転車乗りが持っているものなのではないかとおもっている(むろんパンクを修理しなければならないという状況自体はよろこばしいものではないのだけれど)。
ありていにいえば、パンクをなおすことは、楽しいのだ。 すごく。
あなたも、パンク修理、はじめませんか。
パンク修理のしかた
おまけ:パンク修理のしかた。
詳細はこのページに詳しいのですが、かんたんに説明しようとおもいます。
○用意するもの
パンク修理キット(百円均一のものなど)
空気入れ
0)(マウンテンバイク・ロードレーサーの場合)タイヤを外す。
たいがいのマウンテン・レーサーは前後輪ともワンタッチで外れるようになっているはずです。
ぼくの乗っていた安物のマウンテンのようにネジで止まっているものもありますが、その場合は工具で外すか、あるいはママチャリと同じようにそのまま直しましょう。
1)チューブをタイヤから外す
空気入れ部のナットを外した後、タイヤレバーをリムとタイヤの間に挟みタイヤ部分を浮かび上がらせるようにしてチューブを取り外します。
なれるまではこれが一番大変だとおもいますが、てこの原理を利用して抜き出すようにするとやりやすいとおもいます。しんどければ空気を抜くとやりやすいかも。
2)穴を特定する
チューブに空気を入れて、近くに水道・バケツがあればチューブを水につけ、なければ空気の漏れる音と触感で穴を特定します。
3)穴の大きさに応じて、チューブ交換またはパッチを貼る
穴が小さければその周囲をよくやすりがけして上からパッチ(修理キットのもの)をのり付けし、あまりに大きいか何度もパンクを繰り返しているようならチューブごと交換します。
5回くらいまでならパッチでいいのですが、それ以上パンクするようならチューブが痛んでいるので丸ごと交換のほうがいいかも。
長距離ツーリング中の人は、走行中はチューブごと交換、夜に落ち着いてから外したチューブを修復可能か確認、というのがスタンダードなスタイル。
4)チューブを戻し、空気をいれる
1の逆工程です。ここでチューブをまっすぐに入れないと負担がかかってパンクしやすいので注意。
もちろんタイヤの内部に(パンクの原因となった)異物がないかはよく確認してください。
…と、多くの自転車に乗る人にとっては当たり前な、乗らない人にとっては全く意味のない情報でした。
でも本当に簡単で、そして楽しいのですよ、パンク修理。
There are more important things than childhood
つぶやいてはいたのですが、トロント帰宅後からひどい風邪をひいていました。いまも咳と鼻水は出るし頭は少しくらくらしますが(これはアメリカの強い薬のせいかも)、なんとか元気に学校にいっています。
風邪のくせに煙草を吸っていることを友人に突っ込まれたわけですが、体調がある程度良くないと煙草は美味しく感じないし、形といい大きさといい、これは煙草であると同時に体温計である、みたいなことをいってあきれた顔をされました。煙草とは体温計である。
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取るつもりだった授業の初回テキスト。授業計画変更に伴いお蔵入り。
The Siege: A Family's Journey Into the World of an Autistic Child
- 作者: Clara Claiborne Park
- 出版社/メーカー: Back Bay Books
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彼女は孤独な砦に住んでいた。強制的な、自作の、完全で確かな砦に。けれど私たちは彼女をそこにいさせ続けるわけにはいかなかった。私たちは侵入し、攻撃し、侵略しなければならなかったのだ。彼女がそこで不幸にしていたたからというわけではなく(そうではなかったのだから)、彼女が見つけた均衡は完璧なものではあったけれど、成長の可能性を拒否するものだったから。(12)
「自閉症」という病は40年代に家族言説と発達心理学・精神分析の言説に影響を受けつつ定義され(「冷蔵庫母仮説」)、60年代に医学化され、近年認知科学とのからみとのなかで再度着目を受けているわけですが、これは「最初期」の自閉症患者である娘を抱えた母の回想録。
タイトルが示すように、テキストは極めて明確に戦争の言説に依存している。適当にキーワードを引っ張れば、これは心の「砦」に閉じこもった娘に対し、母の愛という「武器」で「戦い」を挑んだ記録、というわけだ(ここで自閉症が"willed withdrawal"として描かれているのも一つの大きな特徴)。他方でこれは−−最初期の自閉症言説が明確にそうであったように−−自閉症をめぐる言説がいかに冷戦期のdomestic confinement(May, _Homeward Bound_)、つまり核の恐怖を前にした私的領域の価値の称揚を如実に映し出しているかの証左でもある。
ということから、「自閉症」自体が冷戦による文化的構築物だ、と言い出す気はないが、自閉症児をめぐる文化的表象に冷戦が落とす影を考えることはなかなか有用かもしれない、というのが読んだ感想。これは特に、「人間には興味がないコンピュータ/数学の天才」という文化的イメージとの関係から、(ここ数年テーマにしてる)「SFにおける冷戦」という問題に対して新しい光を与えてくれる、かもしれない。
慰めの意味
Jan 5-11, @Toronto。
誕生日は郊外のGreektownとBrickworks Parkという古いレンガ工場跡ですごしました。Greektownは谷あいの街道を中心にした小さな町で、ギリシア人だけでなくメキシコ人、アジア系等多様な人種が集まったところなのですが、市の中心にあるLittle ItalyやPortugal Villege、あるいは中華街と違って、部外者な空気を味わわず(エスニック・コミュニティとしての要素がひくいためだと思います)、観光地として洗練されていて、のんびりとできました。二日強滞在して、ナスのパイとギリシア・コーヒー(ギリシア)、ケバブ(トルコ)、シェラスコ(ブラジル)、とんかつとうどん(日本)、バイン・セオとフォー・ガーとベトナム・コーヒー(ベトナム)、タイスキうどん(タイ)と食べ歩きました。
谷底にあるBrickworks Parkは19世紀頭から1980年代まで稼動していたというのがすごい。さびた溶鉱炉は工場萌えのきわみで、デジカメの電池が尽きたのが心から惜しかったです。
以下、旅行中に読んだ小説。(理論は明日)
The Assault: A Novel (Pentagonia)
- 作者: Reinaldo Arenas,Andrew Hurley,Thomas Colchie
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政府高官の語り手は、「母を殺さなければ母のようになってしまう」という強迫観念と彼女への強い殺意を抱きつつ、国中を視察する(その過程で人々の身体/言語を抑圧する権力装置が描かれる)。物語終盤、政府から恩賞を授かることになった彼は、母が国家最高権力者である「代表−統領(Represident)」その人であることを知り、彼女に襲い掛かりpenetrateする−−。
言語と性を管理社会のメタファと同時に字義的な抑圧対象として描く手法、アンビバレントな母息子関係と他方での父の不在といったモチーフ、虫や小動物の比喩の多用といった美学はオーソドックスで、極めて「カフカ的」。こうした美学の結び目であるクライマックスの母の襲撃は、けれど、ひどくあっさりとしていて、彼と彼の性器は明らかに自己の外部の何者か(あるいは端的に、内的な他者)に突き動かされている。
The Meaning of Consuelo: A Novel (Bluestreak)
- 作者: Judith Ortiz Cofer
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物語の底潮には、植民地主義とそれに対するナショナリズムの構造的セクシズムを個人の精神病理に重ね合わせる身体的アレゴリーがあるのだけど、そこで重要なモチーフになるのがConsuelo自身のrescue fantasy=逆転移であることは興味深い。
(余談だけど、ユースホステルのロビーに放置していたら表紙の女の子にメガネが落書きされていて、アンジェラ・アキみたいな顔になっていた。悪くなかった)