眠れない夜に その1

酔っていてクリティカルに本が読めないので、気になっていた本の最初だけ翻訳。
ジャクリーヌ・ローズ『不眠について』、序章「恥」。
戦争責任問題やヴェール問題のみならず、一人称小説(いわゆる私小説)においても重要なトピックとなる「恥」について。全訳ではなくところどころはしょってます。文責というかその辺の責任はLisbon22に。
(Jacqueline Rose, _On Not Being Able to Sleep_. Princeton & Oxford, Princeton UP, 2003. "Introduction: 'Shame'". pp.1-2.)

 恥は観衆を必要とする。罪悪感はあなたのうちで静かにおこるが、恥は、それとは異なり、自らが見られていたと知った、あるいは恐れたときにしか起こらない。 恥は暴露のわざに依存する−−たとえそれは暴露されることを最も嫌い、これに強く抵抗するとしても。 恥には内から冒すような性質がある。 フロイトは初期の著作において、恥を恐怖と身体的な痛みと共にトラウマのひとつとしてあげた。 ひとは恥で赤くなり、恥に「溺れる」。 まるで恥は、それが服従させるセクシュアリティのように、身体をその表面に近づけすぎることにより、内臓や体液を心のダムからあふれさせるかのようだ。 
 恥は観衆を必要とするかもしれないが、同時に隠匿されており、人々が共有しようとするようなものではない。 誰かと限りなく親密になったときにだけ、ひとは人生で最も恥をかいた瞬間を告白する。 恥はとても尊重すべきものだが、しかし奇妙なトートロジーによって、それは自らを恥じているかのようだ。

 

 しかしながら、恥は同時に行動であり、きわめて公的な側面をもった他動詞(恥じ入らせる)である。 誰かを恥じ入らせることはきわめて政治的営みでありえる。 これはきわめて複雑な倫理的アジェンダをもった「アウティング」のみならず(アウティングをされた公人が恥をかかせられるのは、同性愛者であるためではなくそれを隠していたためだ)、腐敗を止めることを目的とした告発も同様に恥という重要な要素をもつ。 
 恥をかかせることは歴史的な行いでありえ、その射程はきわめて広い。1998年のオーストラリアにおける選挙で、アボリジニーの伝統的な土地の権利主張を制限するハワードの憲法修正案に反対するデモ隊は、手で「恥」という文字を作った(その選挙はしばしば「人種」選挙、あるいは「恥」の選挙と呼ばれた)。 そして恥は集合的なものでもありえる。 ある共同体の構成員皆が謝罪することを求められた、あるいは少なくとも部分的にその必要を認めたとき、恥は公的な悔やみの一部でありえる(たとえばかつての南アフリカアパルトヘイト受益者など)。 恥を感じるのに、かつての拷問者である必要はない(実際、拷問者は最も恥を感じそうにないだろう)。 ただ憎むべき世界に背を向けた、あるいはそれに対して十分に物事をなさなかったと感じるだけでよい。 
 しかし恥じいらせることは常に効果的なわけではない。 恥は論駁されることも、単に踏みつけられることもある。 オーストラリアの人権と機会平等委員会による、難民キャンプにおける人権侵害の告発を受けて、2002年2月『インディペンデント』紙は「こうした破滅的な評価によって、オーストラリアが恥じ入らせられると予期する向きもあるだろう」と述べた。 「しかしそれどころか、キャンベラ当局は同委員会を反政府的アジェンダを追及しているとして批判したのである」。 2000年、トマス・メロンは『アメリ国際法』誌において、人権と人道法の「規範と現実」のギャップについて論じつつ、法の埒外にある価値に重きを置く教育に望みを託した−−すなわち、倫理、栄誉、慈悲、そして恥といった価値に。

 

 したがって、恥は前後に行き来し、我々の内的世界と外的世界の境界を越えるものである。 これは、本書の多くのエッセイに通底する、ある種のリフレインである。 主に1990年代と2000年代最初の2年に書かれたこれらのエッセイは、しばしばある問いを共有する。 みずからをさらけだす人々にコミットする世界に生きることで、我々はなにを得てなにを失うのか−−公的世界、政治的世界、贖罪の世界、華やかなセレブの世界、あるいは比較的私的な詩作という形において−−、という問いを。