Let's hope it's a good one

ピーターパン症候群」という病気はぼくと同じ1983年にうまれた*1。病気がうまれる、というのはフーコー的な意味で・言説としてうまれるのであって、そこには何かしらの権力と欲望がどうしようもなく絡み合っている。言ってしまえば「我々」(僕のような闘病患者もそれ以外の人も)はたぶん、言説としてはピーターパンを必要としている。自分がそれにコミットするかどうかは別問題として、「子供らしさ(イノセンス)を失わないこと」の美学的価値は必要とされ、日々再生産され続ける。その意味で、本の中のピーターパンは、大人にならないのではなく、大人になれない魔法をかけられていると言ってもいい(繰り返すと、これは現実に我々が個々に「ちゃんと」大人になろうとするかどうかとは別問題だ)。

「大人になったピーターパン」を描いたスティーヴン・スピルバーグの「フック」*2を見たときは、だから、とても悲しかった。スピルバーグは明らかにそれを「大人に“なってしまった”」として(そして最後には「子供らしさ」を取り戻す話として)描いていたからだ。けれど、じゃあピーターパンについて、あるいは子供について、子供に向けて、それ以外にどんな物語を書くことができるのか、と問い詰められたら、ぼくは黙ってしまう。それはひょっとしたらとんでもなくおぞましく悲しい物語としてしか書くことができないんじゃないかという気がするからだ。
いまぼくが書いている論文では、たぶんウラジミール・ナボコフの『ロリータ』がその答えとして出てくるような気がする。けれどそれじゃ悲しい。悲しくて悲しくて泣きたくなったりもする。ときどきぼくは自分が若くして死んでしまった子供たちに向けて書いているような錯覚に陥るけれど、結局のところあて先不明で手紙が戻ってきてしまう。どうやってこの文章を終えたらいいのかわからないのだけどここでやめます。

*1:アメリカの精神科医ダン・カイリーがその著作の中でこの「疾患」を提唱した。ただしDSMには含まれてない

*2:興行的にはスピルバーグ最大の失敗作といわれている。実はぼくは映画自体としては悪くないと思っているのだけど。