自転車のパンクを修理すること

 自転車がパンクした、という友人のツイートをみて、ずっと忘れていた小さな出来事をふっと思い出した。 しばらく140字以上の日本語を書いていなかったので、リハビリを兼ねてこちらでかいてみる。
 

 
 いうまでもなく、ある程度以上の距離を走る自転車乗りにとって、タイヤのパンク修理は必須技能だ。 これができないことは時として文字通り命にかかわるし、したがって自転車乗りは第二の天性のようにその技術を身につける。 それは理系研究者にとっての英語のようなものだ−−それ自体は彼/女のやっていることの本筋ではないにしろ、これができないと生き延びていくことができず、それゆえ彼/女は誰にいわれるともなくこの技能を身体的に習得する。
 
 にもかかわらず、二度目の長距離自転車旅行まで、ぼくは自分でパンクをなおすことができなかった。 それどころか、ツーリングにあたってパンク修理やチューブ交換に必要な器具を携行すらしておらず、バッグに入っていたのは百円均一の携帯空気入れひとつというありさまだった。 そもそも乗っていた安物のマウンテンバイク自体ツーリング向きとは程遠く、タイヤをワンタッチで外すこともできない代物だった。
 
 そんな調子でどうやって一度目の長距離ツーリング(神奈川〜兵庫)を乗り切ったのか、今となっては不思議でしかたがない。 おそらくただ幸運だったのだろう。 あるいは国道一号線というこのうえなく便利な道を走っていたので、パンクをしてもすぐに自転車屋がみつかったのかもしれない。ともあれ2週間弱の最初の自転車旅行では自力でパンクを直す必要に迫られることもなく、ぼくは無能なまま、今度は伊豆半島一周のツーリングへと出かけた。
 

 
 それがおこったのが何日目のことだったのか、実はよく覚えていない。 天城峠を越えたあと、山道を下っていた早朝のことだったとおもう。 とにかく、ぼくの乗っていたマウンテンバイクの前輪がとつぜんパンクした。
 山中だったので、当然あたりには自転車屋も郊外型DIYショップもみあたらない。 それどころか車も一時間に数回しか通らない。 朝早くだったのは不幸中の幸いだったけれど、一時的に空気を入れて無理やり走ろうにも思いのほか大きなパンクだったようで、すぐにタイヤがつぶれてしまう。 自転車を押して修理できるところを探すほかなかった。 同行の友人に謝りつつ、それから2時間近くぼくたちは自転車屋を探して山中を歩いた。
 
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 幸運なことに、ぼくたちは麓近くに小さな自転車屋を見つけた。 小さいといってもツーリングのメッカなだけあって、設備のしっかりとした自転車屋だった。 ぼくは頑固そうな店長に簡単に事情を説明し、パンク修理を依頼した。
 
「何をいっているんだお前」と彼は大声でぼくをしかりつけた。
 
 ぼくはあっけにとられた。 自分がなぜしかられているのか理解できなかったのだ。 ここは自転車屋で、ぼくはパンク修理を依頼しにきた客だ。 えらぶった態度をとったつもりもなく、客としてただ当たり前にパンク修理を依頼しただけなのに、なぜ怒られなければならないのだ?
 自分のなにが悪かったのかもわからない、という表情から、ぼくが完全なシロウトであることを理解したのだろう、じゃっかん和らいだ口調で彼は簡潔に述べた。 ツーリングをする人間は自分でパンクを修理するものだ。
 
 当たり前のことだった。 自炊とは最初から最後まで誰にも手伝ってもらわず自分で料理をすることだ、ということと同じくらい、自明の理だった。 それができないでいること、にもかかわらず自転車乗りでございという顔をしていることがいかに恥ずかしいことかをぼくはようやくにして知り、痛いほど自分を恥じた。
「恥ずかしいのだけど、ぼくはパンク修理ができないのです。 次に旅行に出るときにはできるようになります。 ですが今日はこのパンクを修理してもらえませんか」とぼくはいった。
 
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 彼は優しかった。 修理を拒否したのだ。 そのかわり、店の裏にある工具置き場へぼくたちを連れていき、ノリとパッチを手渡して、自分でなおすように、とつげた。
 それから車輪をはずし、外側のタイヤをはずしてチューブを抜き取り−−なれていないぼくは外タイヤ全体をはずしてしまい大きく手間がかかった−−、空気を入れたチューブを水につけて穴を見つけ、そこにパッチを貼り付けてまた元の状態に戻すのに、1時間近くの時間を要した(辛抱強い友人はその間横で待っていてくれた)。
 今だったら10分とかからないその工程にそれだけの時間がかかったのは、先に述べたようにタイヤ交換に手間を要する安物のバイクだったことを差し引いても、ひとえにぼくが不慣れだったためにほかならない。 ぼくにとって自転車のタイヤとはめったにパンクしないものだったし、まれにパンクしたときには自転車屋のお兄さんに800円を払って修理してもらうものでしかなかった。 だがほんとうは違ったのだ。 タイヤとはパンクするものなのだ。 そしてパンクしたときには、汗をかき手を油だらけにして、自分で修理するものなのだ。
 
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 愛用のマウンテンバイクが走れる状態になったころ、日はとうに高くなっていた。 工具を返しお礼をいい、お金を払おうとすると、彼は(ぼくの水準からすると)明らかに安い値段しか受け取ろうとしなかった。 パッチ代とノリ代だけ、ということなのだろう。 押し問答の末、ぼくはそれ以上のお金を彼に払うことを諦め、改めて頭を下げて出発した。
 

 
 自転車のパンクが修理できることは、日常の生活においてとくに大きな利益をもたらすことはない。 とくにあなたが日本の大都市に住んでいる限り、それは年に多くて数回、両手を油まみれにすることと引き換えに数百円を節約すること以上のものではない。
 むろんそれはサバイバル技能などではなく、ある程度以上の金銭と健康を持った人間の、比較的一般的な趣味の領域において、ごく当たり前にできなくてはならない技術でしかない。 それは自転車に乗る人間にとってはインスタント焼きそばを作ることと同じくらい誰にでもできる当然の能力だし、自転車に乗らない人間にとっては興味の対象にすらならないものだ。
 にもかかわらずぼくは、油まみれの手と引き換えにパンクをなおすことに、ある種のよろこびを感じずにはいられない。 そしてひそかに、自律の幻想と自らの手を動かす身体的快楽の混ざったこの感情は、多くの自転車乗りが持っているものなのではないかとおもっている(むろんパンクを修理しなければならないという状況自体はよろこばしいものではないのだけれど)。
 ありていにいえば、パンクをなおすことは、楽しいのだ。 すごく。
 
 あなたも、パンク修理、はじめませんか。