ラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』
- 作者: ラッタウット・ラープチャルーンサップ,古屋美登里
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2007/02/21
- メディア: 単行本
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西洋人観光客とのアフェアを描いた「ガイジン」*3からカンボジア難民少女との出会いを描いた「プリシラ」までの5つの短編は、いずれも10代の少年を主人公とする。これらの短編はいずれも父の不在によって特徴付けられるが、この父の不在はまた(「ガイジン」に顕著に見られるように)「観光客」=オリエンタリストからの視線を内面化することによる、ナショナリズムへの微妙な距離感(国を守る「正しい国民」に同一化し得ないこと)と軌を一にする。こうした父の不在が何らかの形で―例えば兄によるイニシエーションなど(「カフェ・ラブリーで」)―贖われ、無力な少年らが「一人前の男」に近づいていくこれらの短編は、彼ら少年たちが「男の世界」(ホモソーシャル)に参入を果す一種の成長小説だと、まずは読むことができるだろう。
だがこの成長小説は、―およそあらゆる成長小説が潜在的にそうであるように―、常に成長に「失敗する」物語で在り続ける。なぜならば象徴界は決して一枚岩ではないから。言い換えれば、安全でアプリオリなジェンダー・ラインとはある種のフィクションだから*4。
かくしてこれらの「成長小説」は、クィア・リーディングの出番を待つまでもなく、「ジェンダー」の奇妙さをおのずから暴き出す。「少年」が「男」になるこれらの小説はその裏側で、母の失明とその年老いた裸の身体(「観光」)、障害を負った身体(「観光」「プリシラ」)、トランスジェンダー(「闘鶏士」)やトランスヴェスタイト(「徴兵の日」)といった、数々の「おぞましい」身体、ジェンダーラインの安全性を掘り崩す「不気味な」(uncannyな)身体を前景化する。ジェンダーを生きるとは、ジェンダーの他者性を生きること―言うまでもなくこのジェンダーラインの脱構築は「観光客」の視線=「タイ性」を欲望の対象としそのナショナリズムを脱構築する西洋の視線の否応無しの内面化の変奏でもあるのだが―に他ならず、それはとりもなおさず、匿名の「男」「女」(あるいは普通名詞としての「父」「母」)でなく、他者の/としての身体に出会う物語であり続けるのだ。