ラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』

観光 (ハヤカワepiブック・プラネット)

観光 (ハヤカワepiブック・プラネット)

05年デビューのタイ系アメリカ人*1カズオ・イシグロ、エイミ・タンら以降90年代「アジア系アメリカ文学」がしばしばマスターフレーズとした「記憶」「共同体」といったテーマ(だが「記憶」や「個人と共同体との関係」をテーマとしない作品が一体どこにあるだろう?)は、このテキストでは決して前景化されているとは言えない。その代わりにあるのは、クィアネス、欠損した身体性、セクシュアリティの、他者の身体のおぞましさ。そして父/母の身体性、それゆえの他者性と、それに伴う(岡真理風に言うならば)ある種の非=関係の可能性。*2

西洋人観光客とのアフェアを描いた「ガイジン」*3からカンボジア難民少女との出会いを描いた「プリシラ」までの5つの短編は、いずれも10代の少年を主人公とする。これらの短編はいずれも父の不在によって特徴付けられるが、この父の不在はまた(「ガイジン」に顕著に見られるように)「観光客」=オリエンタリストからの視線を内面化することによる、ナショナリズムへの微妙な距離感(国を守る「正しい国民」に同一化し得ないこと)と軌を一にする。こうした父の不在が何らかの形で―例えば兄によるイニシエーションなど(「カフェ・ラブリーで」)―贖われ、無力な少年らが「一人前の男」に近づいていくこれらの短編は、彼ら少年たちが「男の世界」(ホモソーシャル)に参入を果す一種の成長小説だと、まずは読むことができるだろう。
だがこの成長小説は、―およそあらゆる成長小説が潜在的にそうであるように―、常に成長に「失敗する」物語で在り続ける。なぜならば象徴界は決して一枚岩ではないから。言い換えれば、安全でアプリオリジェンダー・ラインとはある種のフィクションだから*4
かくしてこれらの「成長小説」は、クィア・リーディングの出番を待つまでもなく、「ジェンダー」の奇妙さをおのずから暴き出す。「少年」が「男」になるこれらの小説はその裏側で、母の失明とその年老いた裸の身体(「観光」)、障害を負った身体(「観光」「プリシラ」)、トランスジェンダー(「闘鶏士」)やトランスヴェスタイト(「徴兵の日」)といった、数々の「おぞましい」身体、ジェンダーラインの安全性を掘り崩す「不気味な」(uncannyな)身体を前景化する。ジェンダーを生きるとは、ジェンダーの他者性を生きること―言うまでもなくこのジェンダーラインの脱構築は「観光客」の視線=「タイ性」を欲望の対象としそのナショナリズム脱構築する西洋の視線の否応無しの内面化の変奏でもあるのだが―に他ならず、それはとりもなおさず、匿名の「男」「女」(あるいは普通名詞としての「父」「母」)でなく、他者の/としての身体に出会う物語であり続けるのだ。

*1:表紙裏に載ってる顔写真はどうみてもチューヤンでした。

*2:個人的には沖縄文学っぽいなあ、という印象で、まあそれは単に暑いからなのかもしれないけど、率直にいうとそんな印象を受けました。

*3:因みにこれが著者のデビュー短編です。

*4:本書の残りの2編は、タイ人女性と結婚した息子と彼らの間に生まれた孫からの孤独を味わう老アメリカ人男性(「こんなところで死にたくない」:タイトルが凄い)、土地の有力者に「去勢」されることで父を喪失するタイ人少女に視点を移すことで、こうした「男の世界」を他者化する。