現実のデザートへようこそ

Lisbon222007-02-19

考査に備えて修論の見直しを開始。我ながら酷いなこれ。
執筆中にひたすら聴いていた音源*1を友人に勧めたところ、「前にメルで教えられたよ」とのこと(しかも深夜、というか明け方に)。年はとりたくないなぁ、としみじみ思った24歳の冬。

Welcome to the Desert of the Real: Five Essays on September 11 and Related Dates

Welcome to the Desert of the Real: Five Essays on September 11 and Related Dates

ポスト911アメリカを中心とした国際政治(けどジジェクらしくユーゴとかチェコ辺りの東欧の話もちらほら)の流れを、例によってジジェク調で切る。右翼言説はもとより、ローティ風のナショナリズムに陥りがちなブルジョアリベラリズム言説を縦横無尽に走り抜けるのはいっそ心地よい。第2章"Reaprropriations: the Lesson of Mullah Omar"辺りで展開される議論―「多文化主義」あるいは「他者への配慮」を謳うある種の左翼言説が、自分が語ることが最終的に達成不可能であることに自覚的であり、「自身の倫理的位置を確保しつつパフォーマティヴには権力を行使する」という快楽のマッチポンプを内包している、というくだり―なんかは、(生権力批判の言説としてはベタだけれど)そこに快楽という審級を持ち出す辺りいかにもジジェク的でいい。
理論的には、そうしたリベラリズムが(ネグリ/ハートの言う「帝国」と共犯関係にあることから)「人間」(あるいは公的領域において認められた「主体」)の領域の内/外を峻別するアガンベン的生権力の話に繋がってくる第3章後半以降辺りからだんだんベタな話になってきてややトーンダウンするのが残念(というか、この種の議論としてはButlerのPrecarious Lifeがあまりに秀逸なのでそれと比べるとどうしても見劣りしてしまう)。なので個人的に優れていると思うのは第1章"Passions of the Real, Passions of Semblance"。「シミュラークル化して現実感を失った「終わりなき日常」(by宮台)において、我々は災害や事故などの日常的でないものに生の「リアル」さを求める」というベタな言説に対して、そこでの「リアル」は決して(我々の象徴秩序を解いてしまうような)現実界the Realではなく、むしろ快楽の対象なのだ、というくだりにはしみじみ納得。そう考えると80年代的なポストモダニズムモダニズムの違いなんて本当にないんだよなあ。

*1:奥田民生山崎まさよしの歌う「ルビーの指環」:民生のコーラスがたまらない。