★ウラジミール・ナボコフ『ロリータ』4

ロリータ (新潮文庫)
絶望の中、ハンバートはロリータに自分の財産をすべて与えると、彼女のもとを去る。そうしてしまうと彼にはロリータを連れ出した男への復讐しかすることが残されていなかった。結局彼はその男を殺し、それによって投獄されることとなる。だが、そんなことは彼らの愛にとってほんの後日談に過ぎない。その男のもとへの、短い自身の最後の旅に向かう頃には、ハンバートにとってはすべては終わっていたのだ。ハンバートは、彼女にとって自分が「一個の人間ですらなくて、ただ二つの目と赤く充実した一本の肉の足にすぎない」という事実を無視しようとしたこと、「死ぬときに一番いやなのは完全にひとりぼっちだってことだわ」というロリータの言葉を思い出し、どうにもならずに、胸の中で叫ぶように呼びかける。

私はお前を愛していた。私は五本足の怪物だが、おまえを愛していた。まったく鼻もちならぬ、野獣にもひとしい、どうにも見さげはてた男には違いないが、しかし私は愛していた(mais je t'aime)、お前を愛していたのだ(je t'aime)!ときには、おまえのきもちが理解できることもあった。だが、それはわたしにとって地獄の苦しみだったのだよ。ロリータ、勇敢なるドリー・シラーよ。

ハンバートは、自分の絶望的な愛が、ロリータが自分から最も遠く理解不可能な他者であることによるものであることを自覚する。彼が理解できないのは、だが、ロリータもまた、その他者性=非対称性によってハンバートを愛さざるをえなかったという、その絶望的な権力関係だ。そして小説『ロリータ』は、その他者性こそが愛の本質ではないかという絶望的な問いかけと共に幕を閉じる。
 
はしがきにおいてナボコフは、『ロリータ』のもととなった短編小説を書くきっかけとなったインスピレーションを、パリの植物園のサルに関する新聞記事によって引き起こされたものだと述べる。

その猿は、ある学者の何ヶ月にもわたる訓練の結果、動物としては世界ではじめて絵(木炭画)を書いたのだが、そのスケッチに描かれたのは、なんと当の哀れな去る自身の檻の格子だった*1

このエピソードをはじめて読んだときに、僕にはこれが「自由になりたい」という猿の主張だと思われた。だがその解釈は、おそらく決定的に間違っている。猿は、「自由になりたい」などと思うことさえできなかった。自分を閉じ込めているその檻を、愛することしかできなかったのだ(そうでなければ、どうしてそもそも描く=観察の対象とすることがあるだろう?)。愛とは、おそらくそうしたものだ。けれど、絶望的なまでに頑丈な檻に閉じ込められた我々は、自分を閉じ込めるその檻を(同一化することなしに)抱きしめ、それを愛と呼ぶことしか許されない。

*1:リチャード・パワーズは『ガラティア2.2』において「人はなぜものを書くのか」という問いの答えとしてこのエピソードを寓話的に紹介している。