宮地尚子『トラウマの医療人類学』2

トラウマの医療人類学
だが帰国後宮地は、友人のカナダ人医師からフィールド・ワークで出会ったソマリア人少女を養女にしたという話を聞くこととなる。『ウェルカム・トゥ・サラエボ』という映画化された本にも似たような話があったことを思い出した宮地は、子供たちを「救い出した」彼らは皆自分自身に問いかけることになる質問を反復する:「なぜ連れ出したのか。なぜその子でなければならなかったのか。なぜその子だけなのか。」(p.361)
子供たちを連れ出す行為の問題は、彼らが苦しむことになる文化の違いや研究者/ジャーナリストの非介入といった問題だけでは無論ない。そこに決定的に関わるのは、誰かを助けることは他の誰かを見捨てることになる、という倫理の問題だ。

ニコルソン(『ウェルカム・トゥ・サラエボ』の著者:引用者注)はナターシャ(自分が連れてきた女の子:同上)がカメラ写りのいい顔であること、輝いていて、ここ(サラエボ)にいるべきでないように見えたことを、正直に書き記しています。そして「ここにいるべき子どもなど一人もいない」と言い返す孤児院の院長との思い会話のそばに、精神障害を負った少年がたたずんでいることも描写しています。また、帰国後「ナターシャだけ助けてアフリカの餓死する子どもたちをほうっておくのは白人中心主義だ」と非難された経験も書いています。(p.361)

だがニコルソンは、カナダ人医師は、そうして最終的には宮地も、こうしたニヒリスティックな考え方に真っ向から反発する。「すべての人を救えないなら誰も救わないほうがいい、そんなばかなことはありません。救うということが一方的な行為であったとしても、逆の選択肢が死や抹殺でしかないのなら、それを文化中心主義だとか傲慢さの裏返しだと批判するのは白々しいことです。」(p.362)と述べる宮地は、救うという行為の恣意性(それどころかそれが文化=権力に貫かれていること)を理解し、それでも恣意性を受け入れ、行動するしかないのだ、と主張する。そうした「残酷なまでの恣意性を自らに引き受けるタフさといいかげんさ」(p.364)が「救う」行動には必要なのだと。
一見したところオプティミズムにすら見えるような、こうした徹底的なニヒリズムの拒否。知って、なおも絶望しないこと。そしておそらく、それゆえに常に批判や意見に対し開かれている(耳を傾けている)こと。こうした宮地の態度は本書全体を貫くものであり、それを元に宮地は、(精神)医学のあり方そのものを問いに付し続けながら、医療と言う行為(プラクティス)そのものの只中である種のフィールド・ワークを続けることになる。帰る場所のないフィールド・ワーク。それはある種の無責任さを引き受ける責任、旅の責任とでも呼べるものなのだろう。「何もしないことがいいはずがない」という当たり前のことを叫ぶ強さを持たない僕には、こうした宮地の姿勢が、あまりにまぶしく映るのだ。


――――――――

二年前の夏、僕は結局誓いを守ることはできなかった。
カンボジアの(アンコールワットのある町の)小さな町食堂で友人と二人夕飯を食べているとき、ひとりの女の子が通りかかった。物乞いだった。八歳くらいのその女の子は、周りの子供たちに比べてすらさらにやせ細っていた。一瞬息を飲んだのは、ぼろぼろのシャツに身を包んだ彼女が抱えている塊が、死んだ赤ん坊に見えたからだった。けれど赤ん坊は生きていた。手足が異様に細く、裸の肌はまるで老人のようにがさがさだったけれど(幼いまま老いていく病気があるが、そんな印象を覚えた)、赤ん坊は生きていた。
悩んで、どうしようもなく悩んだ末、僕は友人の見ていないところでそっとその子に札を手渡した。日本円にしてどころか、カンボジアの物価から考えてもそう高い金ではなかっただろうと思う(あいまいな言い方なのは、どうしても脳がその夜のことを鮮明に思い出すことを拒否しているからだ。今に至るまでずっと)。けれどその子は、ぼろぼろの紙幣を握ると、少し笑ってthank youといった。