★Walter Benn Michaels, _The Shape of the Signifier_1

The Shape of the Signifier: 1967 to the End of History
フランスの暴動は、徐々に収まってきているみたい。警察による暴力に端を発したことからロス暴動を思い浮かべる向きも多かったようだけれども、当時との時代的な風潮の違いは強く、内相の「社会のゴミ」発言が過半数以上の支持を得るといったわけのわからない状況になっている(今朝の朝刊ではシラク大統領がまるで他人事のように移民差別を非難していて軽く失笑だったのですが)
今回の暴動そのものについては、僕は基本的に(やや)左翼的な立場から郊外の若者のロックな抵抗運動と見る鵜飼哲氏の見解には賛成なのだけれど、とはいえロス暴動と比べるにはあまりにお調子者っぽさがぬぐえないのは、やっぱりこうした運動がどうしても時代がかったものという認識があるからなのだろう。それはともかく、一連の報道を眺めていて思ったことは、冷戦終結後の政治認識について、やっぱりアントニオ・ネグリマイケル・ハートの見解は(単純だけど)説得力を持っているなあ、ということだった。それはすなわち、「歴史の終わり」以降のマクロ政治をどう捉えるかという問題について、マルキシズムがまだ市松模様の有効性を持っているんじゃないか、と、最近考えていたことの延長でもあった。
 
アメリカの批評家(というんでしょうか)Walter Benn Michaelsは、フランシス・フクヤマ及びサミュエル・ハンチントンの議論を引きつつ、冷戦終結に伴いイデオロギー(私は何が正しいと考えるか)をめぐる争いはアイデンティティ(私は誰であるのか)をめぐる争いへと変化した、と指摘した*1。正誤や優劣のつけられない後者の争いをアイデンティティ主義と呼ぶ(これは多文化主義に典型的に形象化される)マイクルズは、その不毛性を指摘し(つまりアイデンティティをめぐる争いは最終的に「あなた」は「わたし」と同じか違うかを比べているだけであり、それは議論にはなっていないのだ、と彼は主張する)、イデオロギーについて、すなわち階級について再考することを主張する。
それに対しネグリ・ハート的な立場をとるならば*2イデオロギーをめぐる闘いは未だ終わってはいない(マルキストって偉いですね)。彼らの言い方を借りるならばそれは対外戦争ではなくグローバルな内戦の形をとり、依然として現在の自由資本主義のあり方に内部から疑いを差し込み続けている。今回のフランスの暴動が先進国の「自由」主義のあり方(郊外や移民への差別)そのもの、特に彼らが比喩的のみならず具体的に被っている暴力(冒頭に述べたような警察から移民への暴力が典型的だ)に抵抗する運動だと見做すならば、のっぺりとしたグローバルな「帝国」のその内部から生じる裂け目としての抵抗は、決して単なるアイデンティティをめぐる(つまり「わたし」の承認を求める)争いではないと言うことができるだろう。
 
ではなぜマイクルズは、あるいはフクヤマイデオロギーをめぐる争いは終わったのだと主張するのだろうか(マイクルズはそのことに対して批判的ではあるのだが)。冷戦終結は自由資本主義が政治形態の進化の終着点であることを証明した(ことによりヘーゲル的な意味で歴史は終わったのだ)、と主張するフクヤマの議論は、冷戦以降のいかなる抵抗も最終的には資本主義の内部で起きたものであり、それに回収されてしまうということを意味している(言い換えれば、ネグリ・ハートのいうグローバルな内戦は、初めから敗北がわかっている争いだということになる)。フランスの暴動はより広い抵抗運動に拡大するどころか、政府の強硬姿勢を支持するバックラッシュ的な言説を作り出すという結果に終わり、大統領は安心して寛大さを示すことができるようになる。だが、このときイデオロギーをめぐる闘いそのものが終わってしまったのだと、アイデンティティ・ポリティクス化してしまったのだと、(批判的にせよ)考えることは、今回のような抵抗運動に対するある種の裏切りとなってしまう。なぜならのっぺりとした「帝国」がその傷口をふさぐのは、(皮肉なことにマイクルズ自身もそこに巻き込まれてしまうような)イデオロギーをめぐる争いをアイデンティティをめぐる争いへと読み替える解釈の権力に他ならないからだ。

(続く)
 

*1:Walter Benn Michaels, _The Shape of the Signifier_, Princeton U.P, 2004。因みに僕の師匠はこのマイクルズと仲良しさん。

*2:Michael Hardt & Antonio Negri, _Empire_, Harvard U.P, 2000