小説の誕生

小説の誕生

小説の誕生

ぼくにとって、保坂和志を読むことは翻訳をすることに似ている。いや、この人の日本語が読みにくいとかそういうことでは決してない。むしろ日常言語に限りなく近いことば(でもこの人や高橋源一郎の言い方でいえば「小説の言葉」)で小説を書き、小説を語ることのできるひとだと思う。問題は内容で、彼の語る小説観が僕のそれとは「ひょっとしたら言語レベルで違うんじゃないか?」と思えるくらい遠いので、相当集中しないと言っていることが半分もつかめないし、字面だけを追うことがないようにしているとおっそろしく読むのに時間がかかるのだ。というか僕は、彼の文章を読むときは翻訳をするときのようにちょっと息をとめて「えいやっ」と数行読み、もぐもぐと咀嚼して、という風にしてしか読みすすめられない。
それでもなぜ彼の文章を読むのかといえば、もちろん一つには今の日本で彼ほど小説について真剣に考えている小説家はいないんじゃないか、と思うからだ(高橋源一郎は小説家ではない)。
「小説の価値(この言葉には強い違和感があるがほかに見つからない)とは、読者の中に“何か”を現前させることにある」という彼の(言ってみればおっそろしくモダンな)小説観に賛同するかはともかく、彼の文章は断片断片で凄まじくものを考えさせる(この小学生みたいな言い回しもどうかと思うけれど)。というか保坂の文章自体僕にとっては読み終わったら何だか内容を忘れてしまうような種類のものだけれど、それは内容がないという意味ではなく、読んでいるそのときの強度そのものに価値があるようなものだからだろう。それはともかく、

「いい作品には説明はいらない」というのは、観客や読者を受動的な立場に囲い込むためのイデオロギーなのだ。
…(中略)…
観客や読者は「作品に考えてもらう人」ではなく、「作品と一緒に考える人」なのだ。「作品と一緒に考える」のであって、「作品について考える」のではない。

この事実優位の思考法が私には気に入らない。思考が事実に負けていると言いたいし、負けなら負けで潔く事実を認めて起こらなかった仮定など考えるなといいたい。
誰に負けたくないのかって?この思考に向かってだ。
…(中略)…
起こらなかったことを起こったことによらずに考えることがどうすれば可能なのか──

人間というのは、「あれもできるこれもできる」という可能性に開かれた存在ではなくて、「これしかできない」というなけなしの選択肢を受け入れる存在なのだ。
意図は重要ではない。
それどころか、意図はもともとないのではないのか

といった断片を読むにつれ、僕は自分自身の小説観が(すなわち、世界観が)揺すぶられるのを感じる。そしてそれと同じくらいそれに反発する気持ちがわいてくるのだが、これが彼の文章をよむ第二の理由だ。というか正確に言えば、そういった精神の状態になるために彼の文章を理解しようとするその困難、その過程自体が気持ちよくて、小説観が揺すぶられるだといったことはその二次的なものなのかもしれない。
つまり彼の小説観と僕の小説観(と言えるほど確立しているわけでも真剣に考えているわけでもないけれど)の距離そのもの、正確に言えばその距離をなんとか縮めようとする営み自体が快い─というか本当に苦しいんだけれど、その苦しさが快い、わけでもなく、苦しさを苦しさとして味わえるというか─ということなのだろう。
追いつくことは永遠に不可能でも、一歩でもその智に近づこうとしている一人の研究者の言葉を紐解くならば、

しかし、そもそもものを読むとは、他人になること、同一になれるはずもないものに同一化することだ。…同一化と欲望とは区別がつかない以上、読むことは原理的に性的かつ無作法なものでしかありえない。要するにわたしは、たとえ自分勝手な愛しかたであっても、すべての人を愛したい。他人の気持ちを感じ取るという性的な歓びがなければ、そもそもなぜ書物など読むのか。(村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて』)

ようするに、そういうことなんだろう。