誰かにとって特別だった君を

何年か前のクリスマスに、友人から「All is fair in love and war(恋と戦争においては全てが正当化される)」と書かれたもらったクリスマス・カードをもらったことがある。彼としては「お前もうちょっと頑張れよ!」的なつもりだったのだろうか(全く余計なお世話だ)。その響きが何となく気に入ってずっと手帳に入れて持ち歩いていたのだけれど、一昨日くらいにアガンベンを読んでいるうちにその意味が少しずつわかり始めてきたように思う。

ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生

ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生

9.11以降、とりわけグアンタナモの拘留が顕在化して以来、批評の世界で「ホモ・サケル」という言葉はかつての「サバルタン」と同じくらいクリシェになった。それくらいアガンベンの議論は衝撃的だったし、現在の社会状況を見るうえでの一つの大きな指針になったことは確かだ、と、思う。
古代ローマ法においては、「罪に問われることなく殺すことが出来るが、その死を儀式化することのできない(殺害可能だが犠牲化不可能な)人間」=ホモ・サケル(聖なる人間)なる人間が存在した。このホモ・サケル=剥き出しの生という形象を、人間の法と神の法それぞれからの例外化であり、同時に逆説的にそれに包含されるものとみる*1アガンベンは、近代の生権力(主権権力)が実はそれを排除=包含として参照対象とするかたちで成立してきたのだ、と解き明かす。このホモ・サケル概念(あるいはそれによって成り立つアガンベン的な生権力概念)が批評においてこれほどの盛況を博したのは、政治理論における「例外状態」(排除による包含)について論じた第一章、実際の「ホモ・サケル」の形象を扱った第二章に続く第三章において、ナチス強制収容所がこうした生権力の究極の形として描かれたからに他ならない。
フーコーの生権力の議論とアーレント全体主義国家の議論の結節点と位置づけられるこの章では、現代において政治が(生そのものを政治の対象とする)バイオポリティクスへと全面的に変容した帰結として、かつてないほど全体的なものになったこと(いわば「例外状態」が普遍化したこと)、その必然的帰結として強制収容所が(ホモ・サケルを作り出す場として)位置づけられることが論じられる。この議論の衝撃は、「生権力」とは「生かす権力である」というフーコーが議論の枠に入れることの出来なかった強制収容所を近代の生権力の拡大に位置づけたことのみにあるのではない。より重要なことは、そうした「例外状態の普遍化」は(ポスト)モダニズムの進行と共に加速している(強制収容所は「(ナショナルな)民主主義」の他者ではなく必然であった!)ということであり、そこにおいては法が宙吊りにされ(ただし何をもって法の外とするかは主権権力の〈法〉が定める)、「すべてが可能である」こととなるからだ。
ここまで来るとこの議論がグアンタナモのことを思い起こさせずにはいられないのはよくわかるし、直接的にアガンベンに言及したのは二度しかなかったバトラーの『不確かな生』(特に法の宙吊り状態において近代的ディシプリンの中から王の絶対権力であるガバメンタリティの亡霊が姿を現すとした第三章(?))も基本的にこの議論を踏襲しているといっていい。まさに「戦争においてはすべてが正当化される」わけで、例えば「今そこにある危機」を唱えて核武装論を始めているどこかの国なんか典型のように思われるけれど*2、これって生権力*3の領域の拡大に伴う必然的なもので、現代においては戦争はなくなるどころか偏在する。そこにおいてはすべてが正当化される。
 
この帰結として「世界のすべてが収容所化する」(そこではすべてが正しい)という世界観があるわけなんだけれど、で、愛についても同じことが言えるのではないか、というのが僕の仮説。つまり、世界のすべてが収容所化する(戦争が偏在することですべてが正当化される)のと平行に、愛のすべてがアブダクションに変わる(そしてそれは普遍化した「例外状態」として正当化される)んじゃないか、と。愛の神秘化ってそれを例外化して普遍化する営みだったし、『ロリータ』あたりそういう読み方で読み返してみると面白いんじゃないかと思う。まだ仮説段階なのでもし疑問や批判等ありましたらぜひともお願いします。

*1:「例外状態」の決定とは何が法の内/外かを定める決定であり、そこにおいては主権権力(近代的ディシプリン以前のガバメント)が直接的に統治する、というバトラーの議論を思い出されたい。後に言うけれどこれって完全に「今は戦争状態だ」といったブッシュの発言なのですね。

*2:まずい、このブログでは政治的発言は控えようと思っていたのに。1アウト。

*3:これは厳密な意味ではフーコーのそれとはちがうけれど