The Last Day of 2006

その日を過ぎると時間そのものがなくなってしまうような、秋の一日。ケーキを食べたり一年ぶりくらいのコンサートに行ったりカレーを食べたりする。

The Sense of an Ending: Studies in the Theory of Fiction : With a New Epilogue

The Sense of an Ending: Studies in the Theory of Fiction : With a New Epilogue

再読。世俗の・連続的な時間を「意味づけ」、永遠を夢想するために、いかに我々が(始まり〜中間〜終わりという)フィクションの時間を作り出してきたかを、様々な時代において流布した世紀末言説を中心に(黙示録や時計の「チク─タク」という音などの分析も行いつつ)解き明かす*1。黙示録の時間概念においては、我々の現在は「終わりを待つ」中間的な時間であり、そうした形での「今そこにある危機」による時間の意味付けは中世に何度も流布した世紀末言説に顕著だけれども、近代においてもそれは(世俗化・内在化した形で)続いているのだ、とKermodeは主張する。
ここでの議論は言ってみればベルグソンの議論(我々は持続としての時間を味わうことが出来ず、それを空間化してしまっている)を逆順から説明しているのだが、Kermodeは「フィクションだとわかった上で「終わり」を措定すること」を、サバイブすることや創造に必須のものとして指摘する。これはとりわけ(詩などに比して)小説というジャンルにおいて顕著だ、との指摘には納得。ただここでKermode的な時間が創造的なものなのかはやや疑問。言い換えると、表象においてすら(というか表象でない時間って考えづらいけれど)時間の一貫性には常に他者がいる筈で、ひょっとしたら我々は同一的なものを作ろうとしているときにその他者をすら欲望しているのではないか、と考えることが最近あるからだ。ちょっとまだあまりにも抽象的思考でしかないのでうまくいえないのだけれど、一貫性を求める欲望はその中に常にその一貫性を乱すことを求めている(でなければ一貫性という概念そのものが成り立たないから)んではないか、と。それがどういうことなのかはこれからの宿題ですが。

*1:とりわけ六章「Solitary Confinement」はRichard Powers, _Plowing the Dark_の元ネタ