ミシェル・オンフレ『〈反〉哲学教科書』

<反>哲学教科書

大学院生にもなってこんな本をこっそりと読んでいる辺りが僕の哲学コンプレックスの現れな気もするのですが(哲学をやっている人と音楽をやっている人に対して強いコンプレックスを持っているのです)、ともあれ読んでみました。「人間」「共存」「知」という三つの大きなテーマを軸に、個々に豊富な実例と多様な思想の引用を散りばめつつ、なるべく「分かりやすく」そして「リアルな」哲学を伝えよう、というフランスの高校生向けの教科書。哲学の掲げる「超越性」なるものを捨象し、「内在性の哲学」、卑近な言い方をすれば「生きるために役立つもの」として哲学を子供達に伝えようという筆者の意図はよく伝わってくる。
だが内容的には、「教科書」と銘打っているだけあって、変にヒューマニストなのが気にかかるところ。それから妙に精神分析を真に受けすぎ。そして、第一部「自然」辺りは議論がシゲキ的なのに、後半になるにしたがってだんだんと道徳の時間と60年代的抵抗の精神のいいところばかりを齧りあった美しい話が並ぶという構造もやや気にかかるところ。ちょっと怖い。それからこれはあくまで「哲学の教科書」ということもあるけれど、政治的な問題になるとちょっと弱い。とりわけセクシュアリティについては、(精神分析を真に受けているというのもあるが)あまりに構築主義的過ぎて無責任な気がするんだよなあ。
まあよくも悪くも教科書なので、道徳の授業とロックンロールを足して二で割ったようなものになるのは仕方ないのでしょうか。筆者の主張する「生きるために役立つ哲学」としては、これよりはよっぽど宮台とかの方が「リアル」で「今を生き抜くマニュアル」として役立つと思いますが。
 
ただ、扱ってるテーマとそれへのアプローチ(哲学史)は豊富なので、考えるヒントにはなる本だと思います。個人的には「君たちはなぜ校庭でオナニーをしないのだろうか?」と題された(フーコーっぽい)セクシュアリティ批判がなかなか面白かった。異性愛・性器性欲・家族制度・ナショナリズムという「正しい」セクシュアリティに真っ向から対立し、それを撹乱するマスターベーションを筆者は抵抗的なものと見做していて、何だかそれって権力に内包された抵抗な気も少しするんだけど、社会的・パブリックなセクシュアリティの物語に回収されないものとしての個人のエロースっていうのは最近興味持ってた話なので面白かった。それってこないだのパワーズの講演とも繋がってくる話で、「生産的孤独(productive solitude)」とはつまりはマスターベーションでしかないんだけれど、パワーズにおいて大事なのは、テクノロジーや想像力を通じてそれをいかにして相互マスターベーション=一種のテレフォンセックスに昇華するか、ということにあるように思えるのです。この話は明日の日記に続く。