2000328

週末は国際交流基金シンポジウム『春樹をめぐる冒険―世界は村上文学をどう読むか』に行ってました。初日はRichard Powersの基調講演、Leung Ping-kwanのコメント、各国翻訳者によるパネルディスカッション、翻訳本の表紙比較、四方田犬彦氏による春樹映画の分析。二日目は各国翻訳者によるワークショップで、村上春樹は「グローバル文学」なのか、「日本文学」なのかというのがテーマ。このテーマに関しては師匠の論文が贔屓目無しに見て今の所一番生産的な議論を行っていると思うので、興味がある方は一読されることを薦めます(Powersが講演の中でこの論文に言及しているのが個人的には非常に面白かったのですが)
http://www.electronicbookreview.com/thread/internetnation/bungaku
 
各国の研究者・翻訳者によるシンポジウムと、一緒に見に行った理系ながらこの分野に非常に造詣の深い親友との議論がとてもシゲキ的な二日間でした。はっきり言って英米文学の研究者なんて日本に既に腐るほどいるので、僕らが就職活動をする頃には日本全体であと数人いればいいという状態になっているのでしょう。その状況でプロフェッショナルな研究者として身を立てるには世界的に通用する(アメリカ文学ならアメリカ文学の)研究をしなければならないわけで、改めて身が引き締まる思いです。
 
で、僕のそもそもの楽しみはPowersの講演だったのですが、これはちょっと春樹論としてはいまいちだったような気もします。柴田元幸編『ナイン・インタビューズ』でもPowersは春樹に触れていたのですが、
ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち
そのときの柴田のコメントにあるように彼は春樹論をするふりをしつつ自分の言いたいことをいっているだけなので(友人いわく脳科学としてもちょっと走りすぎているとのこと)、文字通りに春樹論として読むとちょっとずれている感じはします(勿論Powers研究者としてはそのほうが助かるのですが)。今回の講演でもニューラル・サイエンスとグローバリゼーション(ここで師匠の論文の話が出てきた)の双方から春樹の作品を見つつ、そこに起こっている自己の分裂について春樹が肯定的に(「自由」として)描いていることを強く評価しています。その上でPowersは我々自身の脳の中でこうしたことが起こることに対して、デカルト的自己中心主義の危険を指摘した後で、けれど自己はそれ自体独立してはありえないということ、常に他者性に貫かれており自分より大きな何かを映しているのだ、と指摘し、そこに「愛」―人と人とが繋がりうるという可能性/必然性を読み込みます。これは前回の日記で僕の指摘したマスターベーション(想像上の他者を対象とする自体愛)からテレフォンセックス(イメージの世界においてそれを相互に行うことで「他者との繋がり」を取り戻そうとする試み)へのシフトと完全に重なります。無論これはそうしたコミュニケーションを可能にする交通の存在によるわけですが、Powersのテーマとしていかにこうしたテレフォンセックスを行うかがその中心にあるのはおそらく疑いようがないように思われます。そしてこの点において、PowersはPaul AusterやDon Delilloとは区別されなければならない、ように。
 
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今日は大学の卒業式だった。正直去年自分が卒業したときよりよっぽどさびしかった。小沢健二くるりを聴いたり、ベルギービールを飲んだり、昔親しかった人と桜並木を散歩したり、桜餅を食べたり友達の引越しの手伝いをしたりして、しのいだ。