20060311

The Bell Jar
今日はよく晴れていて気持ちいいですね。初夏を思い出します。僕の住む町では、早くも桜が咲き始めています。とは言えまだまだ三寒四温ならぬ三温四寒といったところですが。みなさん、いかがお過ごしですか?
 
今年最後の課題として、Sylvia Plath, _The Bell Jar_(画像参照)のペーパーを書いております。1963年に書かれたPlathの自伝的小説は、_Catcher in the Rye_の女性版といわれ、アメリカではわりとメジャーとのこと。けれど今ひとつ好きになれませんでした。えてしてそういう小説のほうがいい論文が書けるんですけど(これもそうだといいな)。
で、なんで僕はこの小説が嫌いなんだろうとぼうっと考えていて、気がついたこと。この小説は「女らしさ」(家庭的な)を求められていた主人公がヒステリー状態になり、精神病院に入れられたのち、「自分らしさ」に目覚め自律することで立ち直る、というプロットになっているのですが(ひでえまとめかた)、この「自律」というのがすごくセクシスト風にいうと現代ではわりと「女」の属性(ジェンダー)な気がするのです。
大学の性質ゆえか(なんせ「キャプテン・オブ・インダストリー」ですよ?)、僕の身の回りには「自律した」女性、自己実現の意識を持った「しっかりしたイイ女」がかなり多いです。で、おもっきしミソジニックなことを言うとどうも僕はそうした女性が苦手なのです(比較的そうした女性には気に入られやすいのですが)。これが「女は仕事なんかしなくっていい」(働く女は「女らしくない」)という考えに基づいているなら分かりやすくマッチョな感じなのですが、むしろこうした「自律・自己責任・自己実現」という意識がひどく女性的なジェンダーな感じがして、それ自体がいやって言うかそれに気づいてない人が多い気がするのがちょっと怖いな、と。ちょっとまえの『自由』の話でも触れたように、そうした「自律」、あるいは「自由の私化」は非常に現代的な統治の形態で、一言で言うと就職活動(特に集団面接とか)なんてやってる人はみんなそういうこと(アントレプレナーシップとか)いってる。それは、みんなにそういうことを言わせるシステムがあるということに他ならないわけで、自分が「自律性」を求めさせられているということがどういうことを意味するのかは少し考えなくちゃならない(それがいけないといっているわけではないです)。
これはデリーロのところで言ったことと表裏一体で、

              男       /       女
             他律       /       自律

という新しいジェンダー二項対立が出来ているということだと思われます。まあ多分グローバリゼーションの流れなんでしょうけれど。僕の身の回りでもちゃんと働いてる(充実してる)女性が多いのに対し、いかにダメ男が多いことか(その筆頭が僕です)。
僕は個人的に映画や小説のダメ男(多くの場合白人の優男)に感情移入してしまうことが多いのですが、これも要するに僕自身が上の図の左側に同一化しているってことなのでしょう。東野圭吾とか非常にいい例だと思います。ということで、「イイ女」が苦手だと言ったところで、それは上の図のようなジェンダーから自由なわけでは決して無いわけですね(映画『ビフォア・サンセット』ってすごく好きなんですが、このことを非常に思わせてくれます)。なんかオチのない日記ですが、この枠組みに出口はないんでしょうか。