トニー・ガトリフ『愛より強い旅』

気がついたら、この間始まったと思っていたガトリフの新作の公開が今日までらしい。友人に誘われて、ついでに別の友達も巻き込んで、ワインを立ち飲みしてから見に行った。
正直に言うと、今ひとつといったところ。相変わらず映像は鮮明だし、何よりラマ音楽のトリップ感はたまらないものがあるけれど、今ひとつしっくり来ない。多分それはこの間デリーロについて書いたときと同じで、この映画が基本的に白人男性のアイデンティティポリティクスの映画だからだろう。
自身の「ルーツ」を探しにアルジェリアまで旅する主人公のフランス男が、かつての家族の家にたどり着き彼らの写真を見るという表向きのクライマックスの後で、ガトリフはもう一つのクライマックスを用意する。それは男と共に旅をした(アラブの血の入った)女が、自身の「背中の傷」*1―トラウマとしてのルーツに向き合い、アルジェリアの民族舞踊に参加することで完全にトランスしてしまい我を失ってしまうというものだ(その間男は適度に頭を振って気持ちよさそうにしている)。
男にとってのルーツを探す旅が割と感動的な自分再発見の物語に回収されてしまうのに対して、女にとってのルーツを探す旅がどちらかといえば「自分を失う」ような、疎外感を味わうようなものである、という構図を打ち出した後で、最終的にガトリフは明らかに後者を「本物」として提示している。ただ、それって(前回のデリーロの話と全く同じように)とても「男性的」な物語だ、と思う。女のほうが積極的(ちょっとクレイジーな感じ)で男を引っ張っていくとか、男がうじうじ悩みつつ自分の過去を探るとか。作中での女の科白にあるように、明らかにガトリフは男を「苦労していない」キャラクターとして提示している(その旅が先進国の若者がアジアにバックパックツアーに行くのとあまり変わらないものとして現れる)のに対し、女を「傷を抱えた」ものとして(そしてそれが男にはわかっていないものとして)提示している。で、僕がここまで彼らを固有名詞でなく「男」「女」と呼んできたように、物語文法上これって絶対に男女逆にしては成立し得ない。こうした形で物語を提示せざるを得ないこと、そしてこれを見終わった後で先進国の「見る目のある」白人男性が、「いや、これはむしろ男よりも女のルーツを探す物語で、それに気づけない男がダメ人間なんだよ」と思うような構図を(割合意図的に)作り出していること自体、ガトリフのアイデンティティ・ポリティクスなんだろう。
 
で、そういった政治的批判はともかくとして、上にも述べたように相変わらず映像と音楽はいいです。こちらは完全に門外漢なので何となく思ったこと。
①音楽
ヴェンダースの新作でもi-podを持ち歩く(で屋上で音楽を聴きながら踊る)女の子があったんだけど、この映画でもソニーのMDウォークマンがわりと重要なモチーフです。で、ガトリフが音楽をモチーフにするのはある意味当たり前なんだけれど、ガトリフに限らず今の時代にロードムービーを撮るんだったらやっぱり携帯音楽プレイヤーを持ち歩かせないと「リアル」じゃない、というのは絶対にあると思う。それってどういうことを意味しているんだろう、とぼうっと考えます。
②映像
ガトリフ的な映像として、「他の目」から撮った画面、というのがこの映画でもよく出てきます。旅をすることは他の人の目から自分を見ることだというか。現地であった人たち、あるいは蚊とかの「他の存在」から、自分を他人としてみるというのがこの人の示す「ろーどムービー」のあり方でして、それはまあいい(え?)。
で、気になっているのが、ガトリフを映像から論じるにあたっては多分「壁」というのが一つ重要なモチーフになっているのだろうなと思います。この映画の冒頭で男がヴァイオリンを埋める壁だったり、集合的音楽を聴いているときに演奏者以上に彼らが寄りかかる壁がクローズアップされたり、あとは「壁にもたれて待つ人」というのもガトリフの好きな映像です(『僕のスウィング』(名作!)のラストも壁にもたれた女の子でした)。これって多分上で話したガトリフの男性としてのアイデンティティ・ポリティクスの話とどっかでつながってくるんでしょうけれど、よくわかりません。
 
それで、こういう小難しい(?)話を別にすると、本当にエロい映画でした。女がエロエロ。でも実際にセックスを始めるシーンよりも、その前にお互いに木の実に擬似ペッティングをしているシーンや蚊の視点から女の肌を追いかけているシーンの方がエロかったりして、やっぱりこの人なかなか変態です。

*1:女の背中には語ることができない傷があって、それが彼女にとってのトラウマを示している、らしい。ちなみに映画自体は男の背中、つるつるして柔らかそうで綺麗な背中のアップから始まる。