★Don DeLillo, _Cosmopolis_

Cosmopolis
2003年発行の、ドン・デリーロの今のところ最新作(のはず)。
舞台は2000年、アメリカの大都会。ハイテク機器を駆使する28歳のエリートアナリスト・Eric Packerが、リムジンを乗り回したり女と寝たり円高を心配したりしながら髪を切りに行こうとするお話(?)。表紙裏の宣伝文句がGQでの書評の引用だったりして、21世紀版American Psychoといったところでしょうか。
ピンチョン・パワーズらと同様デリーロの昔からのテーマとして、世界がテキスト化している、それを読み解くコードが鍵となる、というのがこの小説のテーマでもあります。基本的にはBaudrillardのシミュラークル・ハイパーリアル概念(①記号が現実を指すことをやめ、記号自体で完結した交換体系を作り、②続いて現実がその記号を模倣する)を小説化したもので、そうまとめるとこの小説に限らずデリーロは昔から同じ小説をひたすら書いてきたのだ、となって余りに乱暴ですが。
ただし、近年ではデリーロはもう少し「リアル」なものに目を向け始めて小説が変わり始めているのだ、という指摘もあります。前作『ボディー・アーティスト』では女性を主人公に、身体や痛みをテーマとしたのですが、本作でも身体・痛み、あるいは大衆・抵抗といったパラダイムが出てきて主人公のエリックを脅かします。けれど、なんというか、これは『ボディー・アーティスト』を読んだときにも感じたのですが、この人だんだん小説が下手になってきている気がします。はっきり言うならば、この小説でこの人がやろうとしたことは『アンダーグラウンド』ですでに十分にやっているし、『アンダーグラウンド』の方がきっちりとそれが現れている。ポストモダニズム批判から、もうそろそろ身体の問題を考えよう、というのがデリーロの態度だと思われるのですが、彼がこうしたテーマを持ち出すときは結局古い二項対立から抜け出せていません。すなわち、

     身体       /       心
     痛み       /       情報
    一時性       /       永遠
     大衆       /      エリート
     女        /       男

こうした古きよき(皮肉です)ジェンダー二項対立を持ち出しつつ、デリーロは(基本的に右側についていたと思われながら)僕は左側にも目を向けられるよ、これらの対立として社会を描き出せるよ、とアピールしている(?)わけですが、こうした二項対立で世界を捉えること自体が既に差別的だということはあまり自覚してない(というか捨象している)わけです。
 
僕の師匠がかつて「デリーロやオースターは白人男性のアイデンティティポリティクス小説だから」と言っていたことがあるのですが、この小説はそれを典型的にあらわしているといえるでしょう。この間の美術館の話の続きですが、ポストモダンを一つのブームと捉えると、それは明らかに80年代で終焉を迎えました。それ以降は、モリソンのノーベル賞受賞がメルクマールであるように、多文化主義アイデンティティポリティクスの時代になり、乱暴に言うと女性とか身体とかいったものを描いたほうが小説としてえらいとされるようになったわけです。そういう中で白人男性がかつてのようなボードリヤール的世界観の小説を書くことはできない、上の図で言うと左側の項にも目を向けなければならない、という状況が現れると、「他人のことを考える」という思考枠組み(他者志向)それ自体が白人男性的だ、というのが師匠の言おうとしたことだと思われます。最近会社とか回ってると「クライアントのことを第一に考えなければならない」と馬鹿みたいに繰り返されますが、こうした「他者志向」それ自体が上の図で言う右側の属性だということですね。
この話の延長に、デリーロを論じるにあたって重要な概念である「コード」というものがあります。テキスト化した世界を読み解く、その為の記号体系としての「コード」はデリーロ・ピンチョン・パワーズらの小説における鍵概念ですが、これ自体が上のジェンダー二項対立の産物だということです。すなわち、「他者志向」が白人男性の属性(「男らしさ」)となることの延長に、「自分は他人を理解することができる」、あるいは「自分の方が他人のことを理解することができる」(貧乏人は俺達のことを考えられないけれど俺たちは貧乏人のことを思いやることができる)というホワイトバンド的なある種の優越感がそこには生じるわけです。こうしたときに、「コード」を巡る争いが新たな階級闘争になります。すなわち、「他人を理解=解釈する能力」の差が、「男らしさ」あるいは「勝ち組」であることの象徴となるわけです。かくして本作では、終盤で自分を殺そうとする「負け組」男に対してエリックがある種のシンパシーを勝手に感じることになるわけです。
 
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今までの話でわかるように、僕が今この小説を読んだのは堀江元ライブドア社長が頭に会ったからでした。記号が現実を真似するんじゃなくって現実が記号を真似するというボードリヤール的世界観(Shaping fantasy)を一番端的にあらわすのは、株価でしょう。みんなが価値があると信じて、価値があるという風に振舞う(買う)と、実際に価値があることになる。何でも書いたがるエリック(金で全てが買えると思ってる)が、最終的に市場に裏切られて落ちぶれていくという物語は、ライブドア騒動そのものです。
えーと、オチがないのですが、個人的に一番面白かったのがエリックがつぶれる原因が下落すると思った「円」がなかなか落ちずに円高がひたすら続いてしまったこと、という件でした。まる。