暮沢剛巳『美術館はどこへ?―ミュージアムの過去・現在・未来』

美術館はどこへ?―ミュージアムの過去・現在・未来 (広済堂ライブラリー)

ちょっと前の話だけれど、ナム・ジュン・パイクが亡くなった。何となくそれから考えていたことが、暮沢剛巳『美術館はどこへ?』を読んでるうちに形になった*1
 
この本は基本的に、ルーブル以降のいわゆる「近代ミュージアム」のあり方を(その前身となった古代エジプトのムセイオンを起源に)豊富な例を通じて歴史化する前半と、「新しい」ミュージアムの紹介とその背景を論じる後半にわけることができる。
前半では場としてのミュージアムのあり方が歴史化される(例えばルーブルや万博がナショナリズムと共謀していたことの指摘とか、あるいは美術史との関連からポンピドゥー・センターの生まれた理由を論じたり)。で、例えば近年のサイト・スペシフィックなアートを「ホワイト・キューブ」と呼ばれる無機質な美術館空間(「記憶」を「芸術」へと矮小化してしまう)の批判として捉えるなど、暮沢の議論は基本的にミュージアムを「記憶」あるいは「場所」の問題から捉えるという最近の記憶・歴史研究(アイデンティティの問題)の流れにある。
というわけで後半では、ベルリンのユダヤ博物館、ビエンナーレ等の国際展、メディアテークなどの「新しい」ミュージアムについて、それらが「ポストモダン」なものであるとして―すなわち高度資本主義・情報に根ざし、土地・あるいは記憶の問題に関わるものとして―論じられる。ここでも暮沢が強調するのは「空間」の問題で、今転換期を迎えているミュージアムは①サイト・スペシフィックな(土地に根ざした・空間意識の強い)もの―日本では水戸美術館と、琵琶湖博物館とか―と、②ヴァーチャル・ミュージアムサイバースペースという「公共空間」)の二つの方向へ向かっていると指摘する。Fredric Jamesonをひくまでもなくこれはポストモダンな「空間」への意識で、Toni Morrisonに見られるようにそれは「記憶」への意識でもある*2
こうしたポストモダン賛美は、この本がルーブル以降の近代ミュージアムの話ではなく古代エジプトのムセイオンの話から始まっていることからすでに予見されている。簡単に言うと、ルーブル以降のミュージアムがモノに対する「視線」という意識に基づいていて、それが近代的主体の構築を目的としたものであるのに対して、ポストモダニスト暮沢(格好いい)はミュージアムの主たる機能をそのアーカイヴ機能に求めていることによる。モノと、それにまとわりついた記憶が眠る場所としての。
 
こうした観点からすると、暮沢もひくアドルノの美術館批判―「あのいくつもある美術館というものは、代々の芸術作品の墓所のようなものだ」―は、ある意味で批判になっていない。というか、それはある意味でその通りである。近年の記憶・歴史研究やミュージアムスタディーズが示すように、美術館は、亡霊的な記憶のまとわりつく「場所」なのだから*3

昨日の日記で書いたように、図書館がお墓みたいだと感じた小学生の頃の僕の感受性は、ある意味で正しかったのだと思う。お墓みたいな図書館が嫌いだった僕はいつからか(前に書いた映画『小さな恋のメロディ』の影響もあって)墓地の散歩が趣味になっていた。特に外国人墓地はキャッチコピーみたいなのが彫ってあって楽しい。一つ一つ見て回ったりする。墓石の間を歩きながら、生前のこの人はどんな人だったんだろうと想像してみたりもする。あの小学校の図書館にももう一度行ってみたい気もするけれど、これだけの本を読みきることはできないとは感じてももう本棚はそれほど高いと感じないだろう。

*1:わりと引用とかもきっちりしてるけど、ミュージアム研究の入門書としても十分に使えるし何より実例が豊富なので読んでて楽しい

*2:Jamesonはこうした「空間」への意識は「歴史意識」の喪失だと言ったけれど、それは直線的な歴史よりもトラウマ的・身体的・一回的な「記憶」の方が重要になったということですね

*3:そもそも場としてのミュージアムを研究対象とするミュージアムスタディーズが生まれたのだって、こうしたポストモダンな記憶・歴史・空間の流れの中だもんね。