20060222

聖フーコー―ゲイの聖人伝に向けて (批評空間叢書)
Am、先日の学会からちょっと気になっていることがあってデイヴィッド・ハルプリン『聖フーコー』を二年ぶりに再読。今フーコーについて考えるのであれば、ある程度文脈を限定した中で彼の問題系がどれだけ有効か(政治的に「使える」か)を問うのが一番生産的だと思うが、その意味ではやっぱり非常にいい本だと思う(えらそう)。訳者あとがきにもあるように非常に明晰だ。にしても「記号論的ゴミ捨て場」(69)ってすごい言葉。
 
で、読了後遅い昼食を食べつつミクシィを眺めていてぼうっと思ったこと。
僕がミクシィの存在を知ったのは一年くらい前のことで、その頃はミクシィをやっているのは殆どがホモセクシュアル(特にゲイ)かインディーズのバンドをやっている人か引きこもりか、という印象だった(酷いなこの文章)。その後爆発的に人数が増えると共に一般化したけれど、今でもコミュニティには同性愛関係のものが多いし、何よりカミングアウト率がオフラインの世界とは比べ物にならないくらい高い。
言うまでもなく、これは三割くらいはネットの匿名性(一応名前を隠せば誰だかわからない)に起因しているんだけれど、残りの七割くらいは(矛盾することに)ミクシィがある種の私的空間であることに基づいている。「お友達同士の輪を広げよう」っていうスタイルに分かるように、ミクシィの楽しさの本質は「内輪ネタ」だ*1
例えば、シークレットバトンってシステム。

シークレットバトンとは、ミュージカルバトンのように質問をどんどんまわすものなんですが、閲覧者には質問内容を見せず、気になる人はメールせよ、ただし内容を聞いたら絶対に答えなさい、というもの。

僕が今までみたシークレットバトンは、「恋愛バトン」の変形だったりして、みんな子供の頃の話とか今好きな人の話を書いてるだけだから別に良かったんだけれど、これは本質的にもっとタチの悪いものらしい(以下、よく知っている人には退屈な話だと思いますが)。
このページに詳しくあるのですが、「ミクシィ上で交流のある人」をつらつらと並べていくという形式のシークレットバトンにこのページの著者は猛烈に反発しています。「小学生とき女子生徒がクラスで手紙を回してて、手紙を受け取った女子がみんな自分を見てくすくす笑っていた時の感覚」というのはよくわかる気がしますが(笑)、確かに見なければいいとかそういう問題ではないのも確か。リンク先のコメント欄も荒れています。
とは言え、上に書いたようなミクシィの性質を考えると、こういうものが出てくるのはある種必然的だし、誤解を恐れずに言うとこれこそがミクシィの楽しさの本質、ともいえます。僕の好きなギャグ漫画家の言葉ですが、「笑いはそれが受け入れられる範囲が狭ければ狭いほど面白い」。ミクシィが趣味の会う人、あるいは「友達の友達」更に「友達の友達の友達…」へと輪を広げていくことでその「内輪」を広げていこうというシステムである以上、それは本質的に「間違ってるかもしれないけれど僕はこう考えるんだからいいじゃん。人それぞれでしょ」という(リチャード・ローティ的な)自分中心主義的な相対主義のシステム。僕のセンセイの書いた論文で、近年の親密圏の思想に潜む排他性を指摘したものがあるのですが、そこで批判されているのはまさにこうしたあり方。リンク先のコメント欄でシークレットバトンを擁護する人の言い分はだいたいが「楽しんでやってるんだからいいじゃん、人の考えを押し付けるなよ」というものですが、推して知るべしといった感じです。

そんな批判するならミクシィやめちゃえよ、といわれると(こういう人たちは言いそう)アレなんですが、シークレットバトンはともかく実は僕はミクシィのこういう「内輪盛り上がり」っぽさって嫌いじゃありません(今までの書き方だと信用されないか?)。匿名性と仮面的アイデンティティ、あるいは公共性とプライバシーを自分で境界を作って決めることの出来るミクシィは、クローゼットからのある種の解放になりえる可能性を秘めていなくもないんじゃないか…と*2。もちろんそんないいものでも悪いものでもなくて単なるお遊びだ、というのが正しい答えだと思うのですが、人間関係ゲームというのは非常に戦略的なものなのだな、と、たまに思ったりするのです。勉強しよっと。

*1:関係ないけれど、足跡や日記コメント記入履歴のシステムはとてもすごいものだと思う。「プライバシー」の線引きを自由に出来る、というのがミクシィの魅力の一つなのは言うまでもないし、それは2ちゃんねるみたいな「公的空間」とは対称的な感じだ。

*2:もちろんミクシィのおかげでレズビアンやゲイの人たちが生きやすい社会になった、なんて言うつもりはありませんが、当初僕がミクシィを「ホモセクシュアル(特にゲイ)かインディーズのバンドをやっている人か引きこもり」の人たちが多いなぁ、と感じたのは、ミクシィが現実の閉塞性のパロディとして見られていたかもしれないとは思う。