ワリス・フセイン『小さな恋のメロディ』2

小さな恋のメロディ [DVD]
に言ったように、二人はある日授業をさぼって海へでかける。海岸のジェットコースターに乗り、綿菓子をかじりあい*1、バス停に並んで好きな授業の話をしたりする。まだ寒い海に飛び込んだ二人は、並んで砂の城を作り始める。砂山に穴を通しながらダニエルは調子っぱずれの声で言う(だいたいこいつの喋り方はいつもわざとらしいのだ)、「ねえメロディ、僕達結婚しようよ」。それに対してメロディは答えない。波が来るから堤防を作らなくちゃいけないわ、などと言っている。「ねえメロディ」とダニエルはまたトーンを上げる。ようやくメロディは顔を上げる。けれどダニエルの言葉が耳に入らない様子で、彼女はじっと海の彼方を見つめて、つぶやく。

わからないわ。本当にわからない。
I don't know. I really don't.

その後学校をサボったことがばれた二人は、校長先生に呼び出される。いやみったらしく「君には何が今一番大事なことかわかっていないようだね」と繰り返す校長に、ダニエルは答える、「分かっています。先生、僕達結婚します!」。慌てて、君はこの少年にその手をゆだねることを誓ったのかね、と詰め寄る校長にメロディは繰り返す。何を言っているのか分からないと。私はダニエルを愛しているし、それの何が問題なのかわからないと。
やがてこの後勿論両親にもこの話は伝わり、基本的に過保護な二人の両親は動揺し、あなた達にはまだ結婚は早いのよ、と説いて聞かせる。それに対してもメロディは答える。「分からないわ。なんで幸せになってはいけないの?」
 
美しい物語だ。けれど僕は、長い間、この一連の「わからない」という発言の中で、一番最初にあげたもの、ダニエルの求婚に対して海の彼方をむきながら答えた「わからない」が、わからないでいた。そのときに彼女が見せる恐ろしく大人びた表情が。その後駆け落ちまでする彼女が、その時点で「わからない」と答えたということの意味が。
 
この映画が日本で人気が出たのはわかる気がしたと書いた。それは、この映画が「青春性」、大人の社会への反発というテーマを、きっちりとラブストーリーに回収しつつ、それを悲劇にしなかったからだ。こういう映画は実は少ない。『ウェストサイド物語』だって最後は撃たれて死んだ。勿論そのもとになった『ロミオとジュリエット』も。この映画も、常識的に考えたらこのあと二人がAnd they lived happily ever afterとなる可能性は限りなくゼロだ。何といっても二人はまだ11歳なのだ。金をかせぐことだって出来ない。そもそもあのトロッコでどこまで逃げることが出来るだろう。結局のところ二人には家に帰るしかないし、そうしたらそれこそロミオとジュリエットのように離れ離れになるのは見えている。いや、その頃まで二人の愛が燃え盛っているかさえ確かじゃない。
けれど映画は実に綺麗なところで終わる。夕暮れの草原を疾走するトロッコ。実に美しい。その後がどうなるかなんて、誰にもわからないんじゃないか、と思わせる。そしてそれこそが、この映画の、そしてメロディが見つけた愛の魔法だった。
 
墓地のシーンで、二人はある夫婦のお墓を見つける。五十年間連れ添った後、妻が死んだ数ヵ月後に夫も亡くなったという碑文に、それだけ愛していたんだ、と二人はため息をつく。五十年間って、百五十学期分だ。ねえ、とメロディはたずねる。私のこと、五十年、愛せる?もちろんさ、とダニエルは笑う。もう一週間も愛してるんだ、と、リンゴをかじってみせる。
 
メロディが見つけた愛の秘密とは、それが明日も続くかよくわからないものだ、ということだった。劇中でしばしば時間割について言及されるように、大人たちの論理は基本的に時間に従って決めてくる論理だ。授業の時間中は海に行ってはいけない。お父さんは悪いことをしたから、一年間刑務所に入っていなくてはいけない。結婚するのは最低でも二十歳以上。
それに対してメロディが愛と共に発見するのは、「本当の私」というのは、決して時間的にコントロールすることができないものだ、という事実だ。それが生きている実感であり、それは明日がよくわからないということであった。抑圧的な「大人の社会」に対する、身体的な「私」の発見。なるほど青春映画だ。しかし三浦雅士が日本文学について論じたように、20世紀のモダニズム(の文学性)とは、すべからく「青春」についてのものではなかったか?
ダニエル君が無邪気に主張したようには、メロディちゃんは「150学期後」のことを思い描くことは出来ない。走り行くトロッコはどこに着くのかよくわからない。けれど、それは自分で選んだことだったのだ。彼女の逃亡は未来に宛てた一通の手紙になる、「愛を込めて メロディ」。届くかかどうかはわからない。けれどそれは「未来がどうなるかわからない」ということそのものを肯定するラブ・レターだったのだ。よくわからないものとしての自分の生の肯定。今好きな人のことも、明日にはどうなるかわからない。だからこそ正しいのだ。オーンショーだけではない、『小さな恋のメロディ』は、60年代的な抵抗のロマンティックなのだった。
 
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彼女には、少し前まで好きな人がいた。まだ彼女のことが好きだと自覚する前、聞いてみたことがあった。意外と早く好きじゃなくなっちゃったね?
何でこんな意地の悪い聞き方を、と自分でも不思議に思った。わからない、と彼女は笑った。でも、一生好きでいることよりも、一生好きでいられると思うくらいその人のことが好きな瞬間があることの方が素敵なんじゃないかな。私は今あの人のことそれくらい好きだったよ。
そのときから彼女のことが気になり始めた。久しぶりにCSNYを聞いて思い出す彼女の姿は、その後にもうちょっと仲良くなってからのものではなく、無闇にまぶしかったあの夏の帰り道だった。

*1:関係ないですがこの映画もえらいご飯が美味しそうに見える映画です。ダニエル家で開かれるパーティ。オーンショーと町へ出たときにつまむポップコーン。メロディの家でお茶に招かれたときに出てくるクレープ。