村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて』、安野モノコら『JAPON:Japan×France Manga Collection』1

(見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話 JAPON

しかし、そもそもものを読むとは、他人になること、同一になれるはずもないものに同一化することだ。そして…同一化と欲望とは区別がつかない以上、読むことは原理的に性的かつ無作法なものでしかありえない。
要するにわたしは、たとえ自分勝手な愛しかたであっても、すべての人を愛したい。他人の気持ちを感じとるという性的な歓びがなければ、そもそもなぜ書物など読むのか。めんどうな理論を学ぶのも、他人の思考を追体験したいという欲望のため以外、なにがあるというのか。*1

村山敏勝クィア理論に基づいたその著作において、読むという「個人的な」営みと思想的・政治的意義という「公的な」意味を脱構築し、「(遠い)他人を感じる」をいうセクシュアルな快楽を補助線に、それらを結び付けて見せた。
なんて気取った言い方をやめてしまうならば、そもそも本を読みたい、研究したいって思うのって、要するにそれが気持ちいいからでしょう、ということだ。そしてその気持ちよさが、自分と相手が離れた存在で、決して完全には一つになれないのに、重なりたい、交わりたい、まぐわりたい(ふがふが)って思う気持ちでしかないんだとしたら…なんかやらしーんだそれー、宮永君(仮)のえっちー、て感じで(?)、村山は「読む」という経験のもつ本質的なわいせつさを明るみに出し、およそ「読む」という行為がわいせつなものであるということはどういうことなのか考え直すことを僕達に求めてくる。
 
「研究」という批評的距離を持った営み*2に限らず(あれ?)、およそ「本を読む」っていうのはそこに書かれていることや書いている人とのある種の距離感があるから成立することだし、それだから楽しいんだと思う。
文字通り完全に「まるで自分のことみたい」な本を読んでも楽しくない。それだったら別に本を読まなくっても普通に生きていればいいじゃないか。書を捨てよ、街へ出よう!
でもそれを書いている人や書かれているものが、自分から遠いものだったらどうか。自分から遠いその何かに、でもなんだか自分を投影できるような、したくなるようなその瞬間が楽しく、気持ちいいんだとしたら(それは難解な文学理論や脳科学の論文であれ、萌え漫画やノベルスであれ)。踏み込んでも決して縮まらない、最後のその距離こそが読むことの楽しさの本質なのだとしたら*3
それはほんの少しだけ恋に似ている、ような気がする。
 
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今年の頭に刊行された『JAPON』を、欲しい欲しいと思いながらずっと買えずにいた。
日仏17人の「巨匠」によるこの漫画アンソロジーは、とにかく執筆陣が豪華だ。
日本側では安野モヨコ五十嵐大介松本大洋花輪和一谷口ジロー、沓澤龍一郎、そして高浜寛。フランス側ではファブリス・ノー、ニコラ・ド・クレシー、オレリア・オリタ、エマニュエル・ギベール、シュイテン&ペーターズ、フレドリック・ボワレ、ジョアン・スファール、エティエンヌ・ダヴォドー。
日仏学院などの協力によって企画されたこの本で、日本の作家達、そして日本の各地に滞在しその地を描いたフランスの作家達それぞれは、各々が自分の見た「日本」―江戸時代の日本のイメージ、名古屋の地下街、浦島物語、東京の下町商店街…―を描いている。
だが彼ら(フランス陣に限らず日本側も)が「日本」を見る眼差しは、僕達をどこか不安にさせる。「個性的表現」といえば聞こえはいいが、そのざらざらとした眼差しに映る「日本」は、どこか僕らが知っているはずの「日本」と違う気がしてくるのだ。けれどどこか既視感を覚えるとすれば、それは多分「ロスト・イン・トランスレーション」に映るシンジュクや、ヴェンダース「夢の果てまでも」のトウキョウ(にしてももうちょっといい喩えはないのかね)だろう。どこか外国みたいな、何となく違和感を感じさせるような、居心地の悪い、日本。

でも、と僕達は考える。自分の身体を(鏡や何か無しでは)完全には見ることができないように、録音した自分の声を聴くと身もだえするくらい恥ずかしくなるように(うひゃー)、自分を知る、とは、まず自分から距離をとることから始まるのではないだろうか?「考えるな、感じろ」っていうのは、ひょっとしたら嘘かもしれない。だって、感じたって自分がどんな顔をしているかなんてわからない。自分の顔を知るためには、自分の顔からどうにかして距離をとらなくっちゃならない。

でもそれは、誰か別の(国の)人っていう鏡を通してやらなくちゃいけないことなんだろうか?そもそも自分を見たいと思うとき、自分自身を興味の対称にするとき、僕達は自分自身から離れ始めていっているんじゃないだろうか?
自分の中に他者はいないんだろうか?もちろん、そんなはずはない(ある意味でこれはこのブログの最初の記事から僕が一貫して言い続けてきたことで、旅をするということの意味についての今の時点での答えだ)。村山の議論が(上に述べたように)それを政治的(ホモセクシュアリティ)かつ個人的(精神分析)なものと見出すのに対し、『JAPON』で示されるそれは徹底して政治的なものだ。それは一言で言えば、「辺境」の眼差しに他ならない。
 
(続く)

*1:村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話』2005、人文書院

*2:小説に感情移入しているようでは一生小説を「語る」することは出来ないだろう。その意味で「わかる」っていうのと「理解する」っていうのはおそらく反対のことだし、僕は多分好きな小説ではいい論文は書けないだろう。

*3:村山は女によって消費されるものの決して同一化されない、男同士の(戯画化された)性愛としての「やおい」をこの文脈に位置づけていて、わりと笑った。