稲川方人『たった8秒のこの世に、花を/画家・福山知佐子の世界』

 
――敬愛するA.Nに捧げる。
 
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路傍に育つ草、トタンの錆、深夜の路地に生きる飼い主を持たない猫たち、そして野川に立ち枯れている草木や朽ちようとしている花々。これら小さな、か弱い生命に、みずからの「絵画」の原理を見つめて、画壇のアウトサイドにありながら、繊細な絵を構築しつづける画家・福山知佐子。このドキュメンタリーは、画家の多様な内面にカメラを向け、彼女が語り出す言葉から、今日の私たちに等しく問われている生のあり方を見る。(稲川方人

他のあらゆるものを捨て、病的なまでに尖らせた画家の感受性が捉えるものを、丁寧に(まるで触ったら消えてしまう塩の結晶のように)負い続けるフィルム。画家・福山知佐子の生を描くこのドキュメンタリーは、冒頭の血を吐くようにして詩を叫ぶ福山の姿に始まり、彼女の創作風景、インタビュー、そしてその少ない友人達―交流を持っていた詩人や画家など―による彼女との思い出についての語りの中から、福山がキャンバスの上に求めたものを浮かび上がらせようとする。
無数のキャンバスやスケッチ・ブックに描かれる彼女の花は、どれも奇妙に枯れ・あるいは朽ちかけ、通常の意味で「美しい」モノであることをやめてしまっている。何かにとり憑かれたように一心に描き続ける彼女は、その花に何を見るのだろうか。
 
枯れようとしている花は、花といえるのだろうか。それはもはや花であることをやめて、何か別種の「モノ」になろうとしているような気がする。
福山の師である毛利武彦*1のこのことばは、福山の表現しようとしているものを最も適切な言葉に置き換えている。瑞々しく咲いていた花が、奇妙で異質な「モノ」に変わるとき。福山のとらえようとするのは、生命体が当たり前に生命体として「在る」ことが揺らぐ、おそらくその時間だ。僕たちが目の前に見ている何かが、「現在」という時間に集約されたものでしかないその何かが、それ自体の中に時間の流れを引き受けていることが明らかになるとき、僕たちはもうその「何か」を一つのentity(存在)として、何の疑いも無く引き受けることができなくなる。
映画のラストシーン、遠い空の向こうに見える炎(それは存在ではなく、酸化反応という「状態」だ)を映し出しつつ、ナレーターは問いかける。

生存はただ「在る」ことをいうのではない。だから、生命は在るのかと、誰が謡うことができるのか。「絵画」は在るのか、「花」は在るのかと……

かつての恋人・宮西恵三*2が彼女の思い出を語る場所も、友人・花輪和一*3と彼女が表現について語りながら歩くのも、ゆるやかに流れる川のそばだ。川もまた存在しない。それは状態、ある時の流れの(見せ掛けの)凝固だろう。彼女の透明な感受性を硝子に喩えてみたところで、硝子もまた極めて緩やかに流れる液体だということを僕たちは知っている(だからこそそれは光を通すだけでなくちらちらと踊るように反射させるのだ)。

そしてもし生命が「存在」ではなく炎や川や硝子のような「状態」なのだとしたら、それはゆっくりと死につつある身体の謂いに他ならない。彼女の生もまた死に彩られている。敬愛していた生花作家・中川幸夫の死。2003年には、これも尊敬していた(決して友人の多いほうでない彼女は、ごくわずかな信頼できる人に対してのみ赤ん坊のように無防備に心を開くことになる)若林奮の死。そしてまた彼女自身も、甲状腺から肺へと転移し、網目のように広がるがん細胞に、内部から捉えられている。
 
不幸にも幼い頃から死に親しんできた彼女は、もはやそれから逃れることにやっきになりはしない。自分の身体をある種のプリズムに変え、生命体の、「いまここ」の流動性を映し出す彼女は、だが、誰よりも傷つきやすく優しい手で、ひとつながりの生と死を抱きしめている。

*1:画家。創造美術・新制作境界日本画部(現・創画会)の結成に関わる。「花―鎮魂」など。

*2:漫画家。『バルザムとエーテル』『頭上に花をいただく物語』など。

*3:漫画家。『月の光』『刑務所の中』など。