ドイツ写真の現在/アウグスト・ザンダー展

最終日の駆け込みで、「ドイツ写真の現在」展に行ってきました。目当ては若者らしくヴォルフガング・ティルマンス。けれどなかなかドイツの現代写真家の展示は興味深かった。以下、見てない人にはさっぱりわかんないだろうけれど簡単に各人ごとにコメント。
 
ベルント&ヒラ・ベッヒャー:沢山の鉱山や工場町の写真。なんだか労働者の影みたいなのが全く見えないのが印象的。
アンドレアス・グルスキー証券取引所ターミナル駅の無数の人々の写真など。階層や障壁を超えた人種やモノの散らばり方が、何というかグローバル。
ミヒャエル・シュミット:新聞写真等の既成のイメージの組み合わせなど。冷戦期以降の「刻まれてしまうもの」としての歴史をテーマにした彼の仕事はなかなかセンスいい。
トーマス・デマンド:模型で作った部屋(歴史上の出来事の報道写真をモチーフとする)。なんだか全般的に清潔感に伴う死の匂いがする。
ヴォルフガング・ティルマンス:いろいろ。
ハンス=クリスティアン・シンク:人気のない空虚で圧倒的に巨大な風景。美が質より量だ、というのは実は結構賛成。
リカルダ・ロッガン:廃墟の建物から持ち出した家具で再構成された部屋。なんかポンペイっぽいよね。ていうか君トリエンナーレにも出してなかった?
ハイデイ・シュペッカー:植物と建築物を同じ目で撮った写真。数をモチーフにした作品は嫌いじゃないです。
ベアテ・グーチョウ:複数のイメージをコンピュータで合成(その作り物性を隠さないままで)。写真のイメージが受容されるまでに関わるメディア/編集という権力をあらわに出しているのはいい。でもそのまんまな気もするなぁ。
ロレッタ・ルックス:なんか不気味な子供の写真。なんだか子供達が大きく見える。かなり好きです。
 
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実は今回の目的は、同時開催でやっていた(リチャード・パワーズ『舞踏会に向かう三人の農夫』において中心的モチーフにもなった)アウグスト・ザンダー展だった。二十世紀初頭ドイツで学際的に広まった方法論である類型学(タイポロジー)に自らを位置づけるザンダーは、「時代の顔」という作品においてさまざまな階層・職業に属する多数の人々の顔写真を撮影した。目的は、職業や社会階層ごとの「顔の特徴」を捉えること。後のナチも受け継ぐことになる彼の人相学的手法は戦後しばらく批判を集めることになるが、90年代以降のドイツ近代写真界における類型学的方法論(その旗手の最右翼が上述のベッヒャー夫妻だ)、あるいは「量」や「数」を重視する風潮(同じく上に挙げたシンクやシュペッカーがこれにあたる)において彼の手法は近年再び注目され始めている。
 
「時代の顔」は彼のそうした「数」に対する意識が凝縮されたライフ・ワークで、そのテーマはただただ単純にサンプル数によってのみ意義を持つことのなる。そのことに極めて自覚的だった彼はひたすらにあらゆる階層の人々の顔をカメラに映しつづけるのだが、そのなかで自身の目標(どんな顔がどんな人を示しているかのタイプ分け)が明らかに達成不可能なものであることを理解する。しかし彼がそのことに気づいた頃には「時代の顔」は彼の意思のみによっては止められないところにまで膨れ上がっており、かくして彼は(それが何をあきらかにするかわからないまま)ただただ人々の顔写真を撮り続けることになる。だがそのことは、皮肉なことにもう一面では彼の仕事の偉大さを示すことになる。彼の「時代の顔」の失敗は、そのレンズの反対側でもう一つの「時代の顔」を映し出していたのだ。すなわち、雪だるま的に肥大し・自己目的化した生産という彼の仕事自体が、フォーディズム以降加速度的に成長してゆく資本主義/工業生産のメタファとなっていたのだ。そしてそのイメージの増殖は、ベンヤミン的な複製技術時代以降現在に至るまでさらに加速度的に伸び続けることになる。
 
ザンダーの映した多数の人々の顔を見つめる僕達は、その裏に彼が無自覚に映し出したもう一つの「時代の顔」を見る。しかし、見るときに僕達はいつも見られてもいる。彼らの目を覗き込む僕らは、その眼差しの中に僕達自身を、現代の「時代の顔」を見つけ出すことになるだろう。