★ウェス・アンダーソン『ライフ・アクアティック』3

ライフ・アクアティック [DVD]
航海の最後に悲劇が待ち構える。不運な飛行機事故で、ネッドが命を落としてしまうのだ(ちなみにその飛行機にはネッドとスティーヴが乗るのだが、彼らの搭乗の直前にクラフトがネッドと和解する)。
ネッドの葬儀で、スティーヴの出て行った妻の元夫(彼女が出て行った先)は唐突にスティーヴに向かって言う。「君の言うとおり、わたしはゲイなんだ」。それに対してスティーヴは目を伏せたまま答える。「誰だって少しはそうさ。この俺だって」。
 
ミソジニックな「男の、海の世界」に生きる男がホモセクシュアリティと裏表であることは今更言うまでもないし、古典的な「冒険小説」と呼ばれるものが(その元ネタである植民地主義それ自体と同様*1)極めて同性愛/同性愛嫌悪的なホモソーシャルホモセクシュアルな欲望に突き動かされていることはそれほど新しい指摘ではない*2。『ライフ・アクアティック』は、一つのレベルではもはや無媒介で「冒険」を信じることができない、こうした欲望に極めて自覚的なマッチョマンを主人公に据えることで、父から息子への同性愛的欲望の可能性を示唆している。
けれどもう一つのレベルで、彼らは最終的に「ジャガーザメ」を倒すことはできない。それどころか最後の最後で迎えたその相手はあまりに巨大で(10人乗りの潜水艦が簡単に人のみできてしまうくらいの大きさなのだ)、そして途方も無く美しい。そのどうしようもないまでの(自身との)非対称性は、クィアな船長の中で反転し、一つの欲望=圧倒される、自分が無力であることそれ自体を快楽と思う心となる。海で出たときに誰もが(と個人的には思う)抱く、自分がどんどん小さくなっていくようなあの圧倒的などうしようもなさ、その非力さそれ自体が快楽となるとき*3、そこにあるのは極めてマゾヒスティックかつナルシスティックな欲望となる。
この二重の欲望/拒絶に突き動かされ、最終的に陸に上がったスティーヴが再び旅に出ることを決意するところで物語は幕を閉じる。失敗しても、たとえそれが嘘であっても、「冒険」にでること。それは同性愛的欲望/否認、そして同時にマゾヒスティックな欲望/拒絶に基づいた、極めてクィアな冒険となるのだ。
 
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以上の批評は、実はそれ自体新しい発見ではないし(というか最近こういう読み方流行ってるし)、ひょっとしたらあらゆる「冒険」小説・映画に演繹可能なモチーフなのかもしれない。ではなぜ『ライフ・アクアティック』を取り上げたかといえば、この映画がこうした欲望に極めて自覚的で、それが表に表れるように描かれているからだ。
この映画の興味深い特徴として、決して観客に(スティーヴへの)同一化を求める描き方をしない、という点にある。その代わりに映画が求めるのは彼を他者としてみることであり、そのことにより観客は彼のネッド/ジャガーザメへのまなざしを知ることができるようになる。『ライフ・アクアティック』は、もはや父子関係が父子関係として、そして冒険映画が冒険映画としては存在しえなくなった時代の、極めてポストモダンなパロディ映画なのだ。
(とまとめてみたんですが、いいんですかね卑しくも文学研究者のくせにこの大慌てで風呂敷を閉じる式のまとめかたって。)

*1:最近ではこのブログでも何度か紹介した新城郁夫の議論が沖縄を舞台にこの問題を正面から取り扱っている。

*2:例えばHomi Bhabhaの議論、"Almost the same, but not quite"もこの観点から見ることができるだろう。

*3:皮肉なことに親友や息子の死はそれをむしろ強化する。