★ウェス・アンダーソン『ライフ・アクアティック』2

ライフ・アクアティック [DVD]
ティーヴが無精子病だという彼の元妻の告白は、必然的にネッドが彼の「本当の」息子ではないということを意味することとなる。かくしてネッドとスティーヴの関係は、血縁関係でもなく、育ての親子というものでもなくなることとなる。ではこのとき、二人の間にあるものとはいったい何なのだろうか。
この問題を考えるときに、おそらく視点をネッド(子)に置いたままでは、エディパルな思考枠組みから抜け出すことはできない。竹村は前述の『愛について』の中の母子関係に関する議論において、男女の性的アイデンティフィケーションの物語の非対称性が成熟後の愛の形態の社会/政治的偏向を生むのだと指摘し、精神分析の問題点*1は端的にそれが「成長の物語」でしかありえず、成長した後の愛について語っていない(語ることができない)ということにある、と主張した。ラカンに典型的に見られるように、精神分析における主体とは子供の謂いであり(それが男の子であるということはしばしば指摘されるが)、そこにおいては主体化=成長ではない(すでに親の立場となった主体の)経験の物語は語られないようなシステムとなっている。
竹村がここで論じるのが(娘に対し)母について考えることの重要性であるとするならば、アンダーソンが『ライフ・アクアティック』で問いかけるものは、父であることが何を意味するか、に他ならない。
 
かくしてネッドとスティーヴが「自然な」親子関係を手に入れることの困難さ(最終的な失敗)を示すために、航海はさまざまな出来事を用意する。
一つは、クラフトの存在がそれだ。「チーム・ズィスー」を襲った海賊の本拠に(奪われた人質を救出すべく)突入する際、またも「Bチーム」に入れられたクラフトは、ついにスティーヴに向かって思いのたけをぶちまけることになる。ネッドが入ってからあなたはネッドにかまってばかりだ、本当の父親のように慕ってきたのに、俺の気持ちを知っているくせに…。その異様な熱気、切実さは、観客にある種の違和感を抱かせる。これは何かあるんではないか?と*2
もう一つには(時間的に前後するが)海賊に襲われることとなった原因である、ネッドとジェーンの逢瀬がそれだ。目をかけていたジェーンとネッドがベッドにいるところを見つけたスティーヴは怒り狂い、その後もジェーンを巡って口論となった二人は殴り合いを始めることになる。「母」をめぐる二人の争いは、だが、簡単に予想されるように「母」を出汁にした二人の絆の強化(「拳の語り合い」)=ホモソーシャルへと転じていく。そしてスティーヴにとってあたかもそれは初めからネッドと語り合うためであったかのように、それ以降ジェーンへの欲望がふっつりと消えてしまう。そしてその時僕らは、もう一つの違和感を抱くことになる。ネッドとジェーンが抱き合っているのを見つけたとき、スティーヴはどちらに嫉妬したのだろうか?と。

*1:彼女は極めてフロイト、あるいはクリステヴァに沿った議論をおこなうのだが、それゆえにこれを指摘することが重要となる。

*2:実はこの感じはネッドとクラフトが初めて会うシーンから示唆されるものだ。クラフトはスティーヴに寵愛されるネッドの頬をはたくと、「調子に乗るなよ、キッド」と彼を脅す。