★ウェス・アンダーソン『ライフ・アクアティック』1

ライフ・アクアティック [DVD]
父と子、というテーマに惹かれだしたのは、この冬からのことだ。専門の小説家で論文を書いているうちに、「エディパルな敵意を捨てて、父を引き受ける=愛するようになるっていうのはどういうことなんだろう(そんなことは可能なんだろうか)」ということを、ぼんやりと考えはじめていた。必然、ここで言う「子」は息子の謂いになる。精神分析的な解釈法で行けば、逃げ道はない気がした。おそらく、逃げ道を探している時点で一番強く父を意識しているんだろう(そしてたぶん僕にとっての父は実父というより師匠のことだった)。
トニ・モリソンの母娘関係*1、あるいは竹村和子の母娘関係の議論*2は、成長と共に失われてしまうそれを碑文化=ファルス化=喪としてしまわず、メランコリーに浸ること、喪失の悲しみで主体性を失ってしまうその無防備さを引き受けることの重要性を主張する*3。では、父息子関係について、僕たちはどう考えればいいのだろう。
竹村の議論は、母娘関係がお互いを他者としてみること(「言葉にならない」母と娘の癒着的関係という表象は、逆説的に彼女たちの間にある関係を抑圧することでしかないこと)を主張し、それは必然的にある種クィアな色合いの(というかまんまそんな感じの)二人の女の「間」を夢見ることとなった。では、父に対するエディパルなライバル意識を捨て去るということは、彼を「愛する」ということを意味するのだろうか?
 
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ウェス・アンダーソン監督『ライフ・アクアティック*4は、その可能性を示唆している。
物語に出てくる親子とは、海洋冒険家兼ドキュメンタリー映画監督のスティーヴ・ズィスー(父)、そしてネッド・プリンプトン(子)。撮影中に巨大鮫(「ジャガーザメ」)に食われた親友の敵討ちのために「最後の冒険=撮影」に出かけるズィスーの前に突然現れたネッドは、ズィスーと三十年前に関係を持っていた女の間の息子だと名乗る。母を亡くし、一目父に会いたかったと語るネッドを無理やりチームに加えいれたズィスーは、三十年間のブランクを取り戻そうとするかのように彼を可愛がることになる。だが、彼が「チーム・ズィスー」の完全な一員となるには、二つの障壁があった。一人はチーム最古参、スティーヴを「本当の父のように」慕う男クラウス。そしてもう一人は、取材のためチームに同行する美人記者で、妻のある男の子を妊娠するジェーン。
ともかく船は(ネッドの母の遺産を元手に)航海を始め、出て行ったスティーヴの妻の元夫*5の海洋基地から備品をいただいたり、逆に海賊に襲われたりしつつも(エイハブ船長やサンチャゴのように)「ジャガーザメ」の影を追い続け、物語り全体としてはマッチョで古典的な海洋冒険プロットを丁寧に踏襲していくことになる。あまりに丁寧すぎるその身振りは、一種それをパロディ化しているのかと思わせるほどに*6
その一方で、物語のもう一方のプロット、失われた過去=父子関係の取り戻し*7は、決して順調には進まない。マッチョなやり方でジェーンに手を出そうとするもののすげなく振られるスティーヴに対し、実直なネッドはだんだんと彼女と心を通わせていき、徐々に二人の間はきまずくなっていく。そんなネッドに対し、クラウスは「でしゃばりすぎるなよ」と嫉妬を隠さない。ネッドがチームに加入してからはなおさら、自分が「Bチーム」に入れられているように感じるのだ。
そうした中で、(出て行った)スティーヴの妻はお腹の子のことで悩むジェーンに、唐突にある秘密を打ち明けることになる。スティーヴは無精子病だというのだ。

*1:Toni Morrison, _Beloved_, 1987, Chatto & Windus LTd.なぜか僕の手元にあるのはイギリス版なのです(ベトナムバックパッカー街の古本屋で買ったので)。

*2:竹村和子『愛について』2002、岩波。

*3:以前日記で紹介した宮地尚子の議論も同じ流れで、この間お話したときに「それは別種の強さを強いることではないのですか?」と質問したところ、「そんな(自分の弱さを引き受けるような種類の)強さのほうが、いわゆる”強さ”よりかは幾分ましじゃない?」と笑顔で返されて、参った。

*4:しかしここで取り上げる映画は恵比寿系ばっかりですね。関係ないけどこの映画は音楽がとてもよかったです。

*5:ティーヴはビジネス上のパートナーでもある彼のことを極端に嫌っており、ことあるたびに「あのホモ野郎」とののしる。

*6:このあたりウディ・アレンの手法に似ていなくもない。特にフィリピン系の海賊に捉えられた後スティーヴ一人で縄から脱出して海賊を追い払う場面はかなり笑える。

*7:これは映画制作者としても過去の栄光を取り戻そうとするという物語の大枠ともリンクしている。