アントニオ・タブッキ『レクイエム』1

レクイエム
ペソアつながりということで、イタリアの小説家アントニオ・タブッキについて。
そもそも小説家として一家をなすまでは、二十世紀最大の詩人の一人と呼ばれるフェルナンド・ペソアポルトガル人)を翻訳・研究しイタリアに紹介したことで知られていたタブッキは、その作品の中でたびたびペソアに言及し、あるいは(自己の分裂などといった)そのテーマ群を彼に由来するものだと明言している。
 
そんな彼のペソアリスペクトぶりが一番分かりやすい形で出ているのが『レクイエム』*1。人気のない真夏の休日、語り手は(もちろんすでに亡くなっている)ペソアに会うためにリスボンの街をひたすらにふらふらふらふら歩きつつ様々な人に出会う、というのが話の筋なのだけれど*2、これもヴェンダース作品と同様のじりじりするような特有の時間の流れ方の中に生きている(この感じが苦手な人は苦手かもしれないけれど、そういう人はたぶんそもそも旅ができない人だと思うな)。

リスボンでは「よそもの」に過ぎない語り手*3と街の人々が本当に一瞬だけ(おそらくよそものだということによって)ふれあう。けれど一つ角を曲がり、次の章になってしまえば、本当に相手と出会ったのかよくわからなくなってしまう。『レクイエム』というタイトルが示唆するように、語り手が出会った多数の人々*4は、ちゃんとした生身の人間なのかそれともリスボンの街を白昼堂々さまよう亡霊なのか、よそものである語り手にはよくわからないし、別にどうでもいいと思っている感じもする。
一瞬の出会い、そして別れ。小説はその繰り返しで、途中から語り手が何のために旅をしているのかがよくわからなくなる*5この作品だけれど、一応最後にはペソアに会えます。けれど別にそれは大して重要なことじゃない。会ってみるとペソアとの会話には特に山場もなく、それまでに出会ったタクシーの運転手やバーテンダー、あるいは若き日の語り手の父などと何も変わらない(出会ったのか出会ってないのかよくわからないような)出会いと、それに続く別れだけが語り手を待っている。

「よそもの」として街をさまようことで自分からどんどん遠ざかり、その代わりに誰かに出会う。素直に進んでくれない(なんだかじめじめしたような)その時間の流れ。リスボンには今も無数の亡霊がさまよっている。

*1:アントニオ・タブッキ鈴木昭裕訳)『レクイエム』白水社、1997

*2:『インド夜想曲』『遠い水平線』に代表されるタブッキの後期作品はだいたいこんな感じで、なんだかよくわからない感じでさまよっている主人公がいろんな人に会う(なんだこの説明)、というプロットになっている。それに対してここでは取り上げないけど前期作品はもっと実験的で、イタリアで言えばカルヴィーノの短編集みたいな感じ。

*3:この作品の肝は、実はこれがそもそもポルトガル語で書かれたということにある。これは一つにはペソアリスペクトによるものなのは間違いないけれど、(熟練しているとはいえ)異言語で語られることでこの小説が(ポルトガル人にとって)一種の違和感(それこそが旅の感じだ)を覚えさせるものとなっているというのが主な理由だろう。同じ理由でタブッキはそのイタリア語版を書くことを拒否、イタリアではポルトガル語からの翻訳で出版されている。この世界のどこにもこの小説の語りを「自然なもの」として読める人はいないわけだ。ちなみに『インド夜想曲』などの彼のほかの作品はイタリア語で書かれているのだけれど、それもイタリア語ネイティヴならしないような特殊な表現で満ち溢れていることから、ポルトガル語→イタリア語の翻訳のプロセスを自分でやっているんじゃないかと推測されている。「異化された母国語」とでも呼ぶべきこうした語りの性質は、実は南アフリカに生まれ、二十歳まで英語で生活した後父母の母国ポルトガルで生涯をすごしたペソアにも見られる。

*4:小説の冒頭には「この本で出会うことになるひとびと」というページがあって、そこによれば23人。

*5:この点からカフカに並べて語られることが多く、実際作中でも『審判』について言及していたり自分自身カフカに影響を受けていることを明言している