ヴィム・ヴェンダース「リスボン物語」2

リスボン物語 [DVD]
記憶を映像メタファで語ることは、もはや一種のクリシェになった。ビデオカメラを持って歩き回った記憶は、残っている映像そのものに取って代わられる。だが、無論残っている映像は僕が見たものではない。そして、それを見返すたびに僕たちは、その映像が常に過去からずれていることを知る。強烈な日差しが焼き付けた一瞬の幻を再現しようとする行為は、常に瞼を突き刺した痛みへの裏切りとなる。
 
だが、我々は記憶無しで(思い出すこと無しに)生きていくことは、無論できない。ならば僕たちは、常に自分を裏切る親友としての記憶と、どう付き合っていくことができるのだろうか。ヴェンダースは友人の映画監督にその問いを代弁させる。映画監督と音響技師。映像と音。記憶と自分。一番の親友だったはずのものは、気がついた瞬間、一番遠い敵となっている。自分(の記憶)そのものが自分から一番遠くなってしまう瞬間。一番の他者になってしまう瞬間。
 
それに対しどう向き合うか、ヴェンダースが提示する答えは明らかだ。「振り返って自分を信じろ、あの映画の魔法を信じろ。丘の上の愚か者(fool on the hill)になるんじゃない、君の友達が少し手を貸してやるから(with a little help from your friend)」。よそものとして街を歩き、それにより(街のざわめきとしか聞こえないはずの音を)一つ一つ街で生きる誰かの生の証拠として捉えてきた音響技師は、ある種楽観的に呼びかける。その呼びかけに、映画監督は、かつて二人でこの街を映画に撮ろうとしたこと、ビデオカメラに残った映像ではなく、ビデオカメラを回していた記憶を取り戻す。それは色あせ、ひび割れ、年月の圧力によってところどころ歪められているかもしれない。けれど記憶は、自分の中に(のみ)あるものではない。それは誰かとはしゃいだこと、走り回ったこと、一緒に歌い、耳を傾けたことそのものの中にあるのであって、それによって閉じ込められたものではない。


都会のアリス」「さすらい」といったヴェンダースの初期作品は、登場人物自身が一種の景色のように表象されるという点で、文字通りのロード・ムービーと言えた(そしてそれは「ベルリン 天使の詩」で頂点を迎えることとなる)。だがその一方で、「リスボン物語」もまた別の意味でロードムービーだといえる。音響技師が旅に出るのは、よそものとして孤独を味わうことで逆説的に人々の生それ自体に近づくためであり、狂信的で盲目的な袋小路に陥っていた親友にもう一度出会いなおすためでもあった。他方でそれは、自分自身を遠くに追いやること、自分自身が自分にとって一番の他者となる瞬間と向き合うことでもある。
ヴェンダースにとって旅は決して「自分探し」などではない。それはむしろ、自分がいかに自分自身から遠い存在であるかを見つめることだ。そしてそれを自覚するとき僕たちは、一番の他者としての自分に向き合うために、(おそらく初めて)誰かと出会い直すことができるのだろう。