ヴィム・ヴェンダース「リスボン物語」1

リスボン物語 [DVD]
「明るい太陽の下では、音でさえも輝いている」(ペソア
「白は深い沈黙を象徴するのでなかった。過剰な絶句そのものだった」(大久秀憲*1


ヴィム・ヴェンダース監督「リスボン物語」の時間は、ヴェンダース作品特有のじりじりするような流れ方で過ぎていく。しばらく目を離していてもシーンが変わっていない。うつらうつらしていてもまだ同じ展望台に座っていたりする。そうして過ぎていく時間を、僕たちは旅以外に知らない。
 
プロットはといえば、友人の映画監督にリスボンに呼び出されたドイツ人音響技師が、リスボンについての映画のため街中で音を取り集める、というふうに要約できるのだが、これもなかなか旅の時間らしく順調には進んでくれない。そもそも(車のタイヤがパンクしたりして)主人公がなかなかリスボンに着かない。着いたら着いたで、呼び出した友人は姿を現さない(実際彼が登場するのは映画の終わる十分前くらいになってからのことだ)。中盤でたびたび姿を現す奇妙な少年(主人公をビデオカメラで盗撮する)も最後の最後までなんだかよくわからない。
 
そんな中主人公の音響技師は、ただひたすらにマイクを持って街を歩き音を拾い集めていく。その行為は(所有し、殺す行為とされる)ビデオカメラによる撮影としばしば対比され、街の人々の生そのものを表現するものと見做される。街にあふれるほかの無数の音と交じり合い、殺されてしまった彼(女)らの生の証が、指向性のマイクによって再び蘇る。
だが、映画の終盤において友人の映画監督がついに姿を現すと、事態は急変し始める。そもそも彼の映画のためにリスボンに来た主人公に向かい、映画監督はもう映画を撮るのはやめたのだと宣言する。何故なら彼はそもそも自分の愛する世界を永遠に留めるために映像を撮り始めたのに、一瞬の幻の再現(を目指すもの)である映像は、商業主義の介入により今や記憶としては全く信頼できないものに成り下がったからだ。
そうした映像への絶望と、それを補うことのできない音への失望を明らかにする映画監督は、狂信的に、レンズを覗かずに撮った、そして見返しもしない「汚されていない」テープの山を作り出すこととなる。そうすることで、この街を殺さないで澄むからだ、と。

(2につづく)

*1:大久秀憲「リスボン物語」『すばる』2001年6月号