退屈な感受性


教訓は若干長いが、またも身も蓋もない:
オリジナリティとは、探求するべきものではなく、全体の中での自分の位置を見ながら一つ一つの仕事を丁寧にやるなかで少しずつ差異化されていくものだ。
16h、M氏@国立:某所。
議論が盛り上がると、二時間はすぐに経過してしまう。*1手塚治虫ヒューマニストだ」っていうときの「ヒューマニズム」って何を意味するのかよくわからない、という話で盛り上がった。セカイ系ヒューマニズムの連続性(middle groundとしての社会の不可視化)および差異、という問題を考えるのは楽しいかも。
18h、N氏、S氏、K氏@国立:にちにち。
研究室でN氏と合流、ロシア系研究者のS、K両氏とともにひさしぶりのにちにちで飲む。つみれのチゲ鍋、さつま揚げ、エシャロットをつまみつつ生ビールで再会を祝う。この店はモンゴル風うどんが実に美味しいのだけど、長居できず食べられなかったのが残念だった。それにしてもここに通って数年になるが、何がモンゴル風なのかいまだによくわからない(以前一緒に飲んだ中央アジアの専門家も首をひねっていたのだった)。

Violent Affect: Literature, Cinema, and Critique After Representation

Violent Affect: Literature, Cinema, and Critique After Representation

数日前に読了したのだけど、なかなか位置づけが難しい。
下に記したように、アベルの議論はドゥルーズの議論に寄り添うことで現代の批評における「暴力を何かの表象と見做す態度」(=表象主義)、およびそれに伴う道徳的な「判断」を批判することを主な目的とする。
9/11を巡る言説(特にドン・デリーロのエッセイ)をもとに、ブッシュ・ドクトリンに代表されるような「判断」(速度の過多)ではなく、その宙吊り(遅さ)を称揚する振る舞いは、例えばジュディス・バトラーの_Precarious Life_におけるメランコリー論(喪の宙吊り)と比べることができるだろう。
そこまでは良いのだけど、問題は本書でアベルが論じる「道徳的判断と結びついた表象主義」の歴史性が今ひとつはっきりしないので、彼の議論の射程がどこまであるのかがよくわからないことなのだ。例えばアベルはそれをマシュー・アーノルド以降の文化研究の問題だと述べる一方、間違いなくプラトン以来その傾向は続いている。言い換えれば、この「判断」は疑いようもなくカント的なそれであり、カントの「判断力(これは特に美学的判断力だが)」は下部構造(悟性)と上部構造(理性)のmiddle ground = イデオロギーであるがゆえに、表象/道徳の問題系より情動/倫理の問題系を優先する彼の議論においては必然的にイデオロギーの枠組みは抜け落ちてしまうのだ*2。「情動」と歴史の問題は―例えばゴシックとポストモダニズムの比較研究あたりではよく論じられることだと思うが―もう少し検討の余地があるのではないだろうか。

*1:以前友達と冗談で話した時代論(某所に書いたもの)の変奏版のような話が中心。

*2:これは多分彼がテキスト内部における「読者」と実際にテキストを読む「読者」を区別していないことでもあると思うんだけど…というのは別ブログ参照。