SF欲も性欲も食欲の前に敗れ去ったのだ


教訓は森奈津子が教えてくれた:

SF欲も性欲も、一見陳腐で実は過酷な現実の前に、敗れ去ったのだ。

食欲の勝利だった。(森、pp.216)

17h、N氏@渋谷:cafe apres-midi
コーヒーとエスプレッソで、お互いの論文完成に乾杯をする。
ジェンダー史を専門とするN氏との会話は、ダナ・ハラウェイとリベラリズムの連続性、それから売春(厳密にはその歴史的に限定された形態)とエイジェンシーの問題などが中心になった。売春について突き詰めて考えると、どうしても(性)規範や経済、そして生そのものの問題が核に来ざるを得ない。畢竟それをセクシュアリティの問題として考えることは難しくなる;文学において後者の問題を突き詰めることができたのは、(例えばジュネやボールドウィンなど)しばしばナショナリティヘテロセクシズムの外部においてであった、といえば言いすぎだろうが。
19h、@渋谷:シアターコクーン
NODA MAP第14回公演「パイパー」。
数年ぶりにみたNODA MAPは、ジャンル的にも(SF)演出的にも(群舞)意表をつかれるものだった。
およそ千年後の荒廃した火星、という「現在」に、その数百年前=火星植民直後の「過去」が断続的に挿入される、という形式は、以前見た「ロープ」とほぼ同じもの(それにより歴史修正主義という問題を前景化する点も)。異なっているのは、ベトナム戦争を扱う「ロープ」が政治的(歴史的)であったのに対し、インセスト・タブーやカニバリズム・タブーを扱う「パイパー」はより「哲学的」であった点だろう。
ちなみにパイパーとは植民者が火星に連れて行った、暴力や敵愾心を吸収するある種の奴隷ロボット。「最大多数の最大幸福の達成」のため、人間の幸福を数値化し、その増大を目指す、という彼らの設定は疑いようもなく「資本主義的」だ。このリベラルな世界観が、限定された食料(地球からの物資)の供給制度という「共産主義的」な経済基盤―そして女・金・食料の「交換」の不在―と齟齬をきたすとき、「何を食べるか」というより「普遍的」(あるいは「哲学的」)な問題が焦点となる…というのが大まかな構成。個人的には、こうした構成とSFという形式(そしてパイパーの設定)とがどうもうまく咀嚼できず今ひとつ消化不良だったが、コンドルズ演じるパイパーの群舞は―時間の流れ方自体が変わったようで―とてもよかった。

[今週読んだもの]

西城秀樹のおかげです (ハヤカワ文庫 JA)

西城秀樹のおかげです (ハヤカワ文庫 JA)

僕が「パイパー」に対して物足りなさを感じたとすれば、それはSFというジャンルがセクシュアリティと食とを相互補完的に取り扱えるものだからだ;たとえば森奈津子がそうしているように。

脱獄の憂いなくして囚人を永遠に捕らえておくには、二つの閉ざされた空間を用意すればよい。彼を空間Aに閉じ込めているときには、空間Bを娑婆だと思わせ、彼を空間Bに閉じ込めているときには、空間Aを娑婆だと思わせる。そうして、囚人には空間Aと空間Bの間を行ったり来たりさせる。もちろん、本物の娑婆はAでもBでもない。(森、pp.238-9)

森においては空間AとBはヘテロセクシュアリティとホモセクシュアリティの謂いで、本書の7つのお笑い官能SFで森はそれらを区分するヘテロセクシズムのイデオロギー性を徹底的に戯画化する…という堅苦しい言い回しがバカらしくなるくらい、エロエロでバカバカしくて最高でした。電車内で読んでいたらとなりの真面目そうなサラリーマンにしかめ面をされたのは内緒。

判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)

判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)

判断力批判 下 (岩波文庫 青 625-8)

判断力批判 下 (岩波文庫 青 625-8)

必要に駆られて読了。カントの論じる美学的判断力を(アルチュセール的な意味での)イデオロギーの審級として捉える、というのが最近の美学流行りだと思うが、そこに身体の問題をどう接続するのか、はもう少し消化する必要がありそう。

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

吉祥寺のmabuiという多国籍バーで始発を待ちつつ読了。貧困の「現場」のレベルとジャーナリズム・アカデミズムのレベルの橋渡し。貧困に伴う金銭・社会・精神的リソースの欠如を「溜め」(センのいう「潜在能力」の心理的・時間的基盤)のなさ、と呼んだのはとてもしっくりと来る。個人的には児童虐待およびネグレクトの経済的基盤に関するデータがとても興味深かった。「失われた90年代」に児童虐待を巡る言説が強化された―それと平行して「幼児期のトラウマ」ものの小説が大量生産・消費された―ことは、例えば東野圭吾を論じるときには考えられるべき観点だろう。