僕は前はクジラだったようです


教訓は、退屈とはそんなに悪いものじゃないかもしれない、ということだろう。
論文提出後の遊び疲れをぐっすり寝ていやし、地元の散歩と遅まきながらの初詣にいってきた。私の家からみて、普段使う駅と反対側の町は、ほとんど歩いたことがなかった。陽気につられてジャケットでのそのそ行くと、お煎餅屋さんやお肉屋さん、それに人気のない喫茶店の並ぶ、昭和を感じさせる商店街に出る。一枚50円の割り煎餅を片手に、新井薬師まで歩いた。みんなが働いている間にのんびりすることのぞくぞくするような背徳性は、けれど、同じようにぼうっとする町の人たちの姿に薄められる。ただただ幸せな退屈になる。
私の好きな大久秀憲という小説家が、早稲田文学新人賞をとった「葛西夏休み日記帳」という小説で「退屈さに退屈さとして向き合うこと」というようなことを書いていて―じっさいそれは彼の小説すべてに通底する作品原理なのだけど―それから「他者としての退屈さ」というのは面白いなあとぼうっと考えていた。

Violent Affect: Literature, Cinema, and Critique After Representation

Violent Affect: Literature, Cinema, and Critique After Representation

現在四章までしか読了していないためテキスト全体のコメントは避けたいが、本書でアベルは(ドゥルーズの議論に沿いながら)「暴力のイメージ」を「表象」ではなく「情動」として読む方法論/教育法を提言している。
面白かったのが二章、ブレット・イーストン・エリスの小説「アメリカン・サイコ」とその映画版の比較の議論。エリスの小説は、その暴力描写と同時に―登場人物の身につけたもののブランド名のだらだらとした羅列に代表されるように―「退屈さ」によって特徴付けられる(実際、最初の殺人が起こるのは小説が始まってから1/3も経ってからなのだ!)。それに対して映画版は探偵ものプロットに回収することでその「退屈さ」を消している。それは「退屈さ」との対比で強調される暴力のイメージの強度を弱めることに他ならない。これは本書に対する批評やレビュー、つまり本書をとりまく言説空間がテキストの「暴力」を表象/アレゴリーとして捉えた(暴力の個別性を意味に還元した)態度と同じですよね…というのがアベルの議論の流れ。
興味深いのは、テキストの「退屈さ」をドゥルーズのslowing of time-imageの議論に重ねつつ、ジェイムソンのポストモダニズム美学批判を批判しているくだり。「退屈さ」とは時間の流れ*1を遅くすることで、判断*2を先延ばしにし、それゆえに情動の強度/他者性に向き合うことを可能にする。だからポストモダニズムの「フラット」な美学は、ジェイムソンが(既に構成された主体の、心理学的な深みというレベルから考えて)批判したように「情動の衰退」を意味するのではなく、むしろその強化を意味する…というのが彼のロジック。

もちろんアベルの議論は「暴力の他者性」という倫理なのだけど―それゆえ退屈自体の他者性に向き合っているとはいえないのだけど―退屈を退屈として考える/向き合うというのはちょっとやってみたい仕事だなあ。退屈なときに(そうすると退屈には向き合えないのだけどね)。

1/19 23:40追記:
この問題って、こちらこちらで紹介されている阿部公彦の「ゆっくり」考とも通ずるところがあるんだろうなあ…これも読まなくちゃ。いつも勉強させていただいてありがとうございます。

*1:もちろんベルグソン的意味

*2:カント的意味