ホワイト・ネイション―ネオ・ナショナリズム批判

今日は久しぶりに下北で観劇です。わくわく。時間がないので自分用のメモをそのまま貼り付けます。

ホワイト・ネイション-ネオ・ナショナリズム批判

ホワイト・ネイション-ネオ・ナショナリズム批判

本書においてハージは、白豪主義以降を経て60年代以降「多文化主義」を掲げるオーストラリアにおいて発生した、文化/政治的な白人パラノイア(その典型が「白人の被る逆差別」というブレイニー論争である)というバックラッシュの人類学的分析を行う。
本書での主たる分析対象となるのは白人レイシスト/白人多文化主義者という一見対立した白人言説である。ハージはそれらがともに「白人/第三世界―風の人々」という非対称的な二項対立を前提としていること、かつその非対称性は「空間的に限定されたナショナルな領域における他者の管理/決定権を白人が有する」という「ファンタジー」(ジジェク)に基づいていることを主張する。それによりそれらは、彼が「ホワイト・ナショナリズム」と呼ぶイデオロギーの再生産において共謀しているのである。
こうした白人ファンタジーは、ハージによれば、言語・身体的特徴・出自などの文化資本ブルデュー)の蓄積である「白人性」というファルスに基づいている。イスラム女性のヴェール強奪事件やエスニックな他者を巡る排除言説の分析から、彼は白人低文化資本階級における「白人性」の去勢不安/あるいはコンプレックスを指摘する。「ホワイト・ナショナリズム」とは、こうした去勢不安を象徴的に解決/回避するための、「エスニックな他者の中心に立つ、管理主体としての白人」という権力のファンタジーである。
こうした観点から、昨今の「多文化主義論争」はそれが多文化主義に肯定的な立場であれ否定的立場であれ、「『それ』は我々によって問題にされるべきだ」という白人主義の文脈で解釈されなければならない(ジジェク)。こうした象徴的「ホワイト・ナショナリズム」に対して、だがハージは、「『我々』とはすでに多数である」という真の意味での多文化主義の現実(the Real)が既に到来していることを指摘する。その意味において、彼は最終的には楽観的であるということができるかもしれない。

自らの手法を「精神分析人類学」と呼ぶように、ハージのナショナリズム分析はその多くをジジェクの議論に負っている。「多文化主義」の「左翼」と「レイシスト」の「右翼」を、ナショナリズムというイデオロギーを軸に脱構築するジジェクの議論(_Welcome to The Desert of the Real_など)を受け、それらが共謀する「ホワイト・ナショナリズム」というファルスの幻想を暴くとき、彼の議論はバックラッシュを受け右傾化する「民意」とそうした状況を憂う「左翼知識人」双方の前提となる欲望(ラカン的な欠如)を批判的にあぶりだすことになる。こうした彼の議論は、無論のこと現在の日本を取り巻く言説環境の優れた分析材料となりえるだろう。
こうしたナショナリズムの批判的分析が「精神分析」であるとすれば、「人類学」は彼の手法、とりわけ「白人性」をブルデュー文化資本と捉え、その元となるハビトゥスを分析するあり方に見られると言えるだろう。本書の優れている点の一つはそのミクロな社会学分析にあるが、とりわけ印象的なのは「クソの言説分析」である。白人警官のエスニックな悪ガキに対する「あいつらはクソのかけらだ」という言葉、そしてエスニックな悪ガキから白人警官への「あいつらはみんなクソ野郎だ」という悪態から、ハージは通常「レイシズム」とされる暴力の背後に空間管理としてのナショナリズム、それに伴う主体構築の権力を見て取る。少し長いが引用しよう。

「アングロ系」の警官が使った「かけら」という語と、レバノン系の少年が使った「みんなクソ野郎だ」という語の間には、「クソ」の大きさに関して異なる概念と関係がある。権力付与されたナショナルな管理者(この場合はレイシストの警官)にとって、想像された分類の対象は、管理可能な「かけら」なのであり、それは取り除くことができる。この文脈において、権力を剥奪されたレバノン系の少年にとって、想像された対象は圧倒的である。それはまるで、彼が「クソ」によって圧倒され、とてもそれを管理できないでいるかのようだ。
…ある対象を大きいとか小さいとかいったふうに想像する、まさにその発想が含意しているのは、この客体の大きさを決定する、より広い空間に対して想像がなされているという点である。さらに見出せるのは、この客体が、分類するもののナショナルな身体の想像された大きさとの関係で想像されているという点である。
…権力が付与されている「アングロ系」警官のレイシスト的な分類のうちでは、分類として、定義され想像された(ナショナルな)空間における小さくて管理可能な客体の構築と、「小さな客体」を管理する能力を持つ空間的に権力付与された主体としての自己の構築の両方がなされている。

これにはしびれたね。