マダム・モス(蛾夫人)

絹

日本では『海の上のピアニスト』で有名な、イタリア現代作家バリッコの出世作。ちなみに奥付によるとバリッコもテレビ番組の司会者として人気だそうです。

19世紀中葉、欧州からアフリカ・南アジアに蚕の病害が広がるなか、南仏の蚕商人エルヴェ・ジョンクールは、健康な蚕を求め「どんな病気も広まっていない島」日本へと旅立ちます。鎖国下の日本での闇貿易という危険を数年にわたり冒す彼は、取引相手である地下世界の首領・原敬の愛人、「つりあがった東洋人のまなじり」を持たない少女にいつしかどうしようもなく心を引かれてしまいます。
やがて内戦(おそらく会津戦争)の勃発とともに闇貿易は終わりを向かえ、ジョンクールは帰国します。半年後、少女から愛の告白と永別を告げる手紙が届きますが、自身の妻の死後その手紙は妻が「あの女性になりたい」と願って書いたものであることが判明します。


物語は、ジョンクールのエキゾチシズムな欲望、原敬の所有欲、そしてジョンクールの妻の同一化の欲望の焦点となる「蛾夫人(マダム・モス)」ともいうべき「東洋人のまなじりをもたない少女」を空虚な中心として構成されていきます。
彼女が「空虚な中心」であることは、彼女を巡る語りが不足している(彼女は東洋人なのか西洋人なのか不詳である)というだけではありません。他者の欲望の対象として、彼女自身の語りは、絶対的に消去されることになるのです(彼女は劇中一度も言葉を発することがなく、ジョンクールが受け取る手紙も彼の妻によるものです)。けれど奇妙なことに、彼女はそれによりむしろ単一の定義を拒む存在として、あらゆる言説(家族、国家、西洋/東洋…)の外部に位置するように見えるのです。

ここで特筆すべきなのは、ジョンクールの妻の欲望でしょう。夫の心が外にあることに気づき、(ゴンドリーの「インテリア・デザイン」の少女のような)疎外の中で、彼女は夫の欲望の対象に同一化しようとします。けれどそれは同時に、自身を閉じ込める家庭という権力関係(それは個人と国家の関係のアレゴリーでもあります)から外に出る唯一の方法でもあるのです。
そうした二律背反を強いる国家/家族/ジェンダー制度に対し、ジョンクールは滑稽なまでに無自覚で、それを愛の物語へと回収しようとします。けれど『蛾夫人』を読む僕たちは、そこには決して回収しきれない何かが必ず残ってしまうことを知るのではないでしょうか。