8月の夕方に19歳のフランス人の女の子と手回し式の観覧車に乗ることについて

8月のある夕方、湖に面したインドの地方都市のお祭りで、ぼくは19歳のフランス人の女の子と手回し式の観覧車に乗る。ぼくたちはなにもいわない。観覧車は今まさに頂上に来ようとしている。
 

ぼくたちはデリーからジャイプールという地方都市への特急列車で知り合った。出来すぎているようだけど、そのとき彼女はフロイトの「夢判断」をフランス語で、ぼくはガルシア=マルケスを英語で読んでいた。
哲学のコースで無意識についてのペーパーを書かなければいけないの。フロイトって難しいね、と彼女は言い、そこでフロイト理論について気の利いたジョークでも言えたらクールなのだけれど、ぼくはへらへらと笑いながら、いやあ本当に、とだけコメントした。本当にぼくはかぼちゃ頭だ。
それからぼくたちは、どこから来たのか、どこへ行くのか、国では何をしているのか、といった旅のお決まりの言葉を交わし、その後の行き先がほとんど同じであることに二人で驚いた。4時間後に列車がぼくの目的地に着いたとき、帰ったらメールをしようね、というきっと守られないであろう約束に加えて、悪戯心が「次にどこかであったらお茶をしよう」と付け加えた。そしてそれから、手を振って別れた。
 

二日後、聖なる湖のあるプシュカルという町でメインバザールを歩いていたぼくに、リキシャの呼び込みでない誰かが声をかける。彼女だった。サリーを簡略化したようなインド式のワンピースに身を包み、とても身軽な空気にぼくは目を丸くする。
約束どおりのお茶と、おまけにランチを付け加える。プシュカルはとても静かでピースフルな町だ、と彼女は言って、ぼくはそれに大いに賛同する。とはいえ訪れている西洋人はパウロ・コエーリョを読んでやってきているようなスピリチュアルな連中ばかりじゃない(いまでもこの言葉のニュアンスをどうやって伝えたのかわからない。けれどパウロ・コエーリョはグローバルにスピリチュアルなんだろう)、とぼくは言い、彼女は大いに笑う。
 

その三日後、ウダイプールという湖に面した地方都市で、今度はぼくが彼女を見つける。できすぎた偶然を喜んだのち、今日はこの町のお祭りなの、一緒にいかない、と彼女はいう。
湖沿いの通り、ツーリストの一人もいないカーニバルを、地元のひとや巡礼者たちにまぎれながらぼくたちは歩く。食べ物があわなかったのか、彼女は夕べから少し体調が悪い。ぼくはなけなしのユーモアで彼女を笑わせようとはしゃぎまわる。2ルピーで買った紙笛を吹くと、息の漏れる音に続きぷひーと情けない音が意外なほど大きく響き、彼女はそれまでで一番笑う。ぼくはうれしくなって、何度もそれを吹き鳴らす。ぷひー。ぷひー。
ぼくたちはカーニバルの先にちいさな遊園地を見つける。昔のイギリスの海岸にあったような、手回し式のメリーゴーランドや観覧車が集まったやつだ。けれど観覧車だけは、ひとつのボックスが空のまま止まっている。満員にならないと回らないのだ。ぼくたちは顔を見合わせて、同意する。
先にボックスに乗り込んだ彼女に、テレビカメラを抱えた男とマイクを持った男が近づく。祭りを撮りに来た地元のテレビ局だ。この祭りはどうですか?インドをどう思いますか?彼女は笑いながらイッツ・ソー・ナイスだと答える。
 
観覧車が動き出す。これがテレビ・デビューになるなんて、と、ジャーナリスト志望の彼女は大いにはしゃぐ(ちなみにぼくの方は、横浜トリエンナーレを見に行ったとき同じように取材をされた。あれはどうやら中継だったらしく、そのあとで何人かの友人から冷やかしのメールが来た)。
インドの日は傾き、湖を染めていく。観覧車は頂上に近づき、ぼくたちはなんとなく黙る。なにかいうべきだったのに、なんといえばいいのかわからないでいる。そうして、二度と会うことのないぼくと彼女の最後の時間は終わる。
今なら、ぼくはそのときなんていうべきだったのかわかっている。それは「昔々」で始まり、「素敵なことだと思いませんか」で終わる長い話だ。

昔々、あるところにフロイトラカンがいました。
フロイトは狼男や鼠男といった神話上の生き物を従えて、デカルト以来の心身二元論にひとつの答えをだしました。無意識=身体は意識=心に優先している、というのです。その後ラカンは無意識の言語的構造を説き、その二つが互いに相互作用を及ぼしあっていると説いたのですが、ポスト構造主義の「失敗」を経て、パブリックな言説として、身体一元論は確固たる地位を確立することになりました。デネットに見られるような認知科学と経済学の融合はその象徴といえるでしょう。「心」に対して「身体」が過剰であることに関心を持つ(その違和感を大事にする)「心」こそが人間なのだ、と説く人もまれにいましたが、これだから浅田チルドレンは、とまるで相手にされませんでした。

けれどぼくは、ぼくたちが生きている中で、ぼくたちの心と身体がばらばらの二つのもののまま、うまく接することのできるような、そんな場所がどこかに見つかるのではないか、とひそかに思っています。それはどこだかまださっぱりわかりません。けれどぼくと君がこうして三度も偶然に出会って、同じ観覧車に乗っているみたいに、ぼくたちの心と身体が、権力関係に陥らずにしっくりとうまく接することのできるような、そんな場所はどこかにあるのではないでしょうか。それは、素敵なことだと思いませんか。

ぼくはそう語りかけるべきだったのだ。