アーセナル!
渋谷。セガフレード、ときどき文化村。
- サム・ガルバルスキ「やわらかい手」
http://www.irina-palm.jp/
16h@渋谷。
コンクリートの壁に囲まれた殺風景な部屋。一つの壁には自販機のようなスリットと、それからちょうど腰くらいの高さに小さな穴があいている。男はその前でおもむろにベルトをはずす。スリットにコインを差し込む。壁の穴に性器を差し込む。やがて、彼の口から声が漏れてくる。
「落ち着け…落ち着くんだ…チーム名をアルファベット順にならべるんだ…ア、アーセナル!」
…とこんなシーンが続くような馬鹿映画かな、との期待はいい意味で裏切られ(因みに上のシーン自体は劇中に出てきます)、真面目ないい映画でした*1。病床の孫のため、セックスワークに従事する老年の女性マギー。彼女に「仕事」を教える先輩の移民女性の「ここではあなたが主導権を持つの(You're in control)」という科白とは裏腹に、マギー自身は最後までセックス・ワークそれ自体への自己肯定感情が得られず、常に「させられている」状態なのがとても悲しい(やがて「イリアナ・パーム」として名が売れた彼女によって、この移民女性が職を失い、尋ねてきた彼女に敵意を剥き出しにするのも切ない)。
けれどこの映画の本当に悲しいところは、彼女の陥った状況の最悪さでもセックス・ワークの顕在的なスティグマ性でもなくって、彼女が自分の「仕事場」である「壁の向こう側」の部屋に絵や花を飾って「自分の部屋」のようにしたり、自分が働くクラブのオーナーが自分に「ビジネス上の関心」以上の感情があることを求めたりするところにあるように思う。セックス・ショップを訪れる男達にとっての「壁の穴」は、自身のファルスで貫くことのできる公/私の確かな境界であるのに対して、セックスワーカーである彼女にとって「壁の穴」の向こう側では公/私の境界がなくなる場所に他ならないからだ。それは公の(ヘテロ)セクシズムを彼女「自身の」スティグマとして受け入れさせられると同時に、自分の「私的」経験を貫くセクシズム/レイシズム…に否応なくむき合わせられることに他ならない。
個人的に良かったのは彼女が「仕事」のし過ぎでテニス肘ならぬ「ペニス肘」になるくだりと、クラブのオーナーがこの「壁の穴」タイプのセックス・ショップを「日本から俺が取り入れた、メイド・イン・東京だ」と説明するところ。ははは、と笑ってから帰って調べたら、「ラッキー・ホール」っていう名前で70〜80年代に流行った風俗だったのですね。
- シャンタル・ムフ『民主主義の逆説』
- 作者: シャンタルムフ,葛西弘隆
- 出版社/メーカー: 以文社
- 発売日: 2006/07/15
- メディア: 単行本
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(1)民主主義は包摂/排除の論理に基づいた概念であり、その為それは経験的にというより存在論的に(原理的に)不可能である。
(2)自由民主主義において自由主義と民主主義とは常に抗争状態にあるものと考えられるべきで、規範的合理性と道徳的合意によりそれらを統合することができるとするロールズ、ハバーマスらの「合意論モデル」は端的に間違っている。
(3)以上から、今日の民主主義がとるべき道は「第三の道」などではなく、自由民主主義の持つ抗争性を引き受け、正しさ(客観性・合理性)と権力の相互作用に目をむけ、その権力をより非固定的で抑圧の少ないものへ絶えず変化させ続ける、ヘゲモニー論に基づいたラディカル・デモクラシーである。
(1)(3)辺りはジジェク・ラクラウの言っていることをよりとっつきやすくした感じで、本書の白眉はシュミットのテキストの脱構築的読解からの(2)の主張だろうと思う(その意味では、ムフ自身もあとがきで書いてるけどデリダの『友愛のポリティクス』に非常に近い)。ラクラウは(ジジェクとの絡み以外でも)この(1)を「現実界」とかさらっと言ってしまうのだけど、本書ではあとがきくらいにしか精神分析の話が出てこず、ウィトゲインシュタンの話になっている。ウィトゲンを使うことでラクラウとはどのように違うことを言っているのかは、再読しての楽しみに。
- 作者: 武富健治
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2006/08/11
- メディア: コミック
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…(コメントしづらい)。