喋る笑う恋をする
会うたびにアジアンカフェに入り浸っているわたしと友人のシメサバさん(仮)。「杉なんて滅べばいいのに」とわたしが言うと、「杉は花粉じゃなくて細胞分裂でふえるべきだと思う」とシメサバさん。イメージ的には、成長した親杉から、小さな杉のこがぽろぽろっと。残念ながらその方法は既に絶版になっているので*1、杉さんには絶滅したくなければぜひとも他の方法で子孫を残す方法を考えて欲しいところ、と帝国主義的な不自由な選択のロジックも厭わないわたし。辛い。
- 作者: 渡辺幹雄
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 1999/12
- メディア: 単行本
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これまでハンナ・アレントらのポリス/オイコスの議論の延長上(あるいはその反転)でローティを捉えていた―ある意味で非常にフェミニズム化されたローティ理解―身としては、フレイザーのローティ批判への再批判(渡辺曰く、ローティの主張する公/私の峻別は「むしろ政治的/個人的の謂いであって、それらは共に社会的である。自己がすなわち自己記述であるとすれば、それはまた社会的なプラクティス―つまりは言語ゲーム―によって構成されている」(250)。)はややお粗末な感じを免れない(それに限らず、ローティへの基本的な批判への応答を中心に構成された第四章は、全体的にわりと不満が残るところ)。
個人的には、ローティの哲学的立場は賛同するが政治的立場には全く賛同できない(こうした態度はそれ自体ローティ的な気も)。だがそれでも、わたしたち(誰?)はこの本の五章で彼が繰り返し問い続けるような問い―ラディカリストは果たして政権をとることができたらどうするのか、すなわち、例えば「グローバリゼーションは、任意の一国がその国の労働者の待遇アッカを阻止しようとすれば、それによって彼らから雇用を奪うしかない、そういう世界経済を生んでいる」(380)というジレンマにどう具体的に対処するのか、或いは、そういった問いをそもそも初めから問うているのか、いないとすればその時「文化系左翼」のしていることは自身の「倫理的アイデンティティ」を政治的意識としての「道徳的アイデンティティ」に押し付けているだけではないのか、といった問い―に対して、真摯であり続けなければならないだろう。