お茶大COE文献討論会(Laura Mulvey, _Visual and Other Pleasures_と_Death 24×a Second_, #5)に行ったぜ!

Lisbon222007-03-10

フェミニズム映画批評の草分けといわれる"Visual Pleasure and Narrative Cinema"(_Visual and Other Pleasures_, #3)*1。この論文が後に巻き起こした、彼女の二項対立図式の単純さへの批判、あるいは「では実際の女性観客はどうなる?」という*2素朴な疑問などの多くの反響に対し、理論的にはラカンからフロイトへ、とりわけフェティシズムや不気味なもの(uncanny)へと焦点を向けることで、Mulveyは_Visual_において映画テキストに内在する権力関係へより視野の広い分析を行っている、とひとまずは言えるだろう。
_Death 24_の主眼はその後のデジタル技術の進歩による映画と観客の関係性の変容と新しい観客/主体性について(こちらは未読なので斉藤先生の発表より)。発表後竹村先生が「Mulveyの指摘する意味での新しい観客(デジタル技術が可能にした、参加型の、直線的な物語構造に穴を穿つような観客)の出現は、児童性虐待やポルノグラフィなどの形での暴力表象の拡大と裏表なのではないか」と指摘されていたのが興味深かった。個人的には(DVDが一番象徴的だと思うけれど)デジタル技術を観客の側が手にしたことによって「直線的な物語性」が解体されることが生むある種のフェティッシュは、予期されざる他者性との出会いを約束するのか(むしろ逆ではないのか)がやや疑問。一つのシーンの繰り返し、コマ送り(デジタル映像に昔のフィルム的意味でのコマはないのだが)などによる映像それ自体への意識の回帰(Mulveyはヒッチコックに言及しつつそれにやや期待を向けているようなのだが)は、逆に「見たいものだけを見る」という態度に近いような気がするのだが。

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からゆきさん (1976年)

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精神分析の知88 (ハンドブック・シリーズ)

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空腹の技法 (新潮文庫)

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*1:本論分でMulveyはまなざしに関するラカンの主体構築の理論を背景としつつ、ハリウッド映画において「見る男性主体/見られる女性客体」という視線の政治が構造的に組み込まれていることを詳らかにした。

*2:ここでMulveyは実際の観客の話というよりも作品のイデオロギーの話をしているのでこの反応は厳密にはやや話がずれているのだが、こうした反応は後の映画研究における観客論の充実を巻き起こした。