どちらにあったのか忘れたけど、離婚は予言の自己成就的性格を持っている、というくだりにしみじみ感動した。わざと負荷を課して「愛を試す」営みは結局不毛だからやめなさいよ、というアド
バイスは、本当に数年前の自分に聞かせてやりたいが、どう考えてもそこには「大事なものだからこそこの関係を壊したい」という(死の)欲望があるよなあ、という気もしたり(でも今は割と幸福なのであまりよくわかりません)。
19世紀(資本主義の萌芽)という「集団の夢」へ、
ベンヤミンが自らの
唯物論的歴史主義(これは
マルクスのいうものとは随分異なるけど)を実践した「パサージュ論」。いやしかしこの本の中でも言われていることだけど、
ベンヤミンの文章はしみじみ格好よくって、引用された彼の言葉の強度があまりに強くて、彼の言葉を引用している当のテキスト(つまりこの本)自体があまり印象に残らない。でもここで示されてる
ベンヤミンの歴史哲学テーゼ(例の「歴史の天使」のやつね)の方法論=古本の収集って、殆どある種のフェ
ティッシュと見分けがつかない気がする。面白い。
戦争を資料によって「客観化」し、「歴史化=過去化」しようとする流れに対し、沖縄において未だ「日常のなかで生起し、偏在していく戦争の継続したあり方」(8)を形象化するものとしての「沖縄文学」を巡っての断片集。無論ここで「沖縄」と名指されるものは固定的な・本質的なものではありえない。「沖縄」とされるものの内外から、「沖縄」なるものを作り上げる言説の力―それは今なお潜在する暴力を隠蔽するもう一つの暴力に他ならない―を暴き出す(
オルタナティヴな)語りとしての「沖縄文学」。以前講演をきいて以来僕は一小説読みとしてこの新城さんという研究者の大ファンなのですが
*1、彼の誠実(倫理的)なところは「沖縄研究」という学問、とりわけその
歴史学・
政治学において/対して「文学」あるいは「文学的想像力」が持つ有効性に常に向き合い、それを唱えているところだと思う。その意味で「文学における戦争の「語りなおし」の実践」(220)と言う意義に常に向き合い続けるこの本を読むことは、「文学とは何か」と自分自身に強烈な問いかけなおし続けることなしにはできないのだラ。