僕はにわかでできている

Lisbon222007-03-02

新カテゴリ「芝居」立ち上げ。
実を言うとですね、修士論文提出以降やらなくちゃならないこと―引越しや研究計画の見直しや小説・理論の読書、それからますます混迷としていく人間関係―を棚上げして、日に日に目減りしていく預金通帳に目をつぶり、にわか芝居ファンを気取っているのですよ。
といっても週に一本ほどなのですが、ざっと挙げると
○笛田宇一郎演劇事務所「激しく待ち焦がれながら/悪こそは未来」(ハイナー・ミュラー原作)@神楽坂die pratze
○Noda Map「ロープ」(野田秀樹)@Bunkamura
OM-2「ハムレット・マシーン」(ハイナー・ミュラー原作)@日暮里サニーホール
○にしすがも創造舎「アトミック・サバイバー 〜ワーニャの子どもたち-」(阿部初美)@にしすがも創造舎特設劇場

  • 日本の「明るい」電気生活(byチェーホフ)を支える原発を、特に六ヶ所村の核燃料再処理施設にフィーチャーして、徹底的に戯画化。実際の処理工程を玩具の模型でコミカライズしたシークエンスと、その内部で処理の行程に携わり、放射線の最前線にコミットする/させられる若者達のシークエンスの対比もさることながら、ラストで流れる「トロロソング」のあまりの「明るさ」(観客はもちろんその明るさを文字通りに受け取ることなどできない)が衝撃的。原発事故が起こったら、食べよう、食べよう、とろろ昆布。

*1

あまり数は見てないけど「殆ど初めて芝居を見るのにこんなにいいものばっかり見に行ってるなんてこの贅沢もの!」と同行の友人(芝居の師匠)に羨ましがられたりしてます。
 
そして今回見てきたのが、Port B「雲。家。」(エルフレーデ・イェリネク原作)@にしすがも創造舎特設劇場。
公演後のポストパフォーマンス・トーク*2では、海外の芝居を「翻訳」するとはどういうことか、というのが一つのトピックになった。ドイツ共同体の中でのオーストリアの位置、という極めてスペシフィックな政治性を持ち、またその詩的音楽性を謳われたイェリネクのテクストを日本で公演する際に、いかにアクチュアリティを持ったものとして提示することができるか。或いはほぼ全編がヘルダーリンフィヒテヘーゲルらのドイツ思想・文学テキストからの引用によって形作られたイェリネクのテクストを(しかも外国語で)「演じる」ことはいかにして可能か*3
これは換言すると、ドイツ共同体におけるオーストリア、すなわち「彼ら」によって他者化されてしまった者たちの、「わたしたちは/ここに/いる」という証言は、どういう形であれば今ここにいる「我々」にとって真に生々しい問題として届くか、ということの謂いでもある。Port B(高山さん)は劇中に巣鴨プリズンとその跡の墓のカット、或いは外国(アジア系)人留学生らの対話を導入することで、「他者は自らの土地にあってもいるということができない」「わたしたちの家はわたしたちの言語に満ちている」という言明が徹底して「今ここ」にいる「我々」の問題であることを伝えようとする。他者によって他者化されてしまうことの暴力。その中で「私たちの家」を探すことの必要性。けれどそれがさらなる「他者」を作り出す暴力の連鎖を引き起こす可能性。劇中、舞台背景にあるスクリーンが反転し、大写しの文字が客席からではなくその反対側から見られるような形で映し出されるとき、「我々」は自分達がもはや安全にイェリネクのテキストを読む側ではなく、読まれる側にこそいることを知るのである。
Port B公演の大きな特徴は、この「わたしたち」という証言を一人の日本人女性に代表させたことだ。「わたしたちは/わたしたちの/もとに/いる」という証言、「母国語」という形象を何者かによって代表させることは、無論のこと排除の構図にコミットする危険を伴いかねない。だがここでPort Bは「わたしたちの家」の証言を、件の外国人留学生、そして巣鴨プリズンの存在を「知らない」と証言する若者らの声―完全に重なりあうコロス的な声でなく、ずれを許しながら、それぞれのトーンで真っ直ぐに語る不協和音―にオーバーラップさせることで、ある種の「やさしさ」を確保しえている、とぼくは思う。「わたしたちの土地」の上に「わたしたち」と「彼ら」を二分する記念碑(「深さ」と「過去」の徴)を打ち立てることは、たとえそれを逆転させることであれ、ひっきょう排他的なナショナリズムに堕する危険性を内包する(高山さん自身ポストパフォーマンス・トークの後のお話でこの演劇がある種のナショナリズムに聞こえなかったかと危惧していた)。だがPort Bの提示する「わたしたち」は、その中に内的差異を許すことによって、異なった者達が、とりあえず異なったままで寄り添いあう「家」の可能性を提示しえているのではないか。ポストパフォーマンス・トークでは"Wolken.Heim."というタイトルにおいて、Wolkenがもやもやとした雲ではなく暗雲、その裏に嵐を待ち構えた雲であり、こころ落ち着くHeim(家)とは対比的関係にあることが強調された。だがPort Bの提示する「家」は、内外の境界(排他的構図)を掘り崩されつつある家、もやもやとした、何かやさしい「家」なのではないだろうか。

*1:全くの余談だが、この芝居を見ながら僕は大学の生協の前のトイレに六年前からずっと張ってある張り紙を思い出した。「日本の原発は安全です!」と書かれたその張り紙には、日の丸を背景に銃を担いだ兵士の影、それから「いくら漏れても大丈夫!」との強烈な言葉が書かれている。あまりに強烈過ぎて、時にこれは文字通りに原発の安全性を謳っているんじゃないかと錯覚するほどで、多分アジ・ポスターとしてはあまり効果的に機能していない気がする。

*2:その後でPort B演出の高山さんと少しだけ直接お話させていただく機会を得られた。感謝!

*3:翻訳者の林さんは結局引用された元のテキストそれ自体を全編自ら訳しなおしてそこから引用するという形でその「ちぐはぐさ」を何とか演出可能なものに落とし込んだという。結局翻訳したテキストは本編A4で14枚ほどだったのに対して注が120枚ほどになったというから、本当、頭が下がる!