左利きになりたかった
ここを読んでる友人と吉祥寺に行く。
16h0@くぐつ亭。とんとんと地下へ階段を下りていくと、怪しげな洞窟めいた店に(壁のプラスチックぶりが「カリブの海賊」的)。各々自分の本を読む「ひとり読書会(二人)」敢行。友人、レモンティ。僕、キンモクセイのお酒を注文、勉強する気ないでしょ、と叱られる。そんなことないですよ。
一時間後、元気に小説談義をする二人。この歳になると構造や形式でびっくりする小説に出会うことはあんまりないよね、と友人a.k.a.トニー。構造はアイデンティティなんだ(その程度には重要だし、その程度にしか重要じゃないんだ)、と、僕。喋っているうちに酔っ払っていることが判明。何を言っているか判らなくなる。「構造は人間にとっての服や化粧みたいなものだ」といおうかと思ったんだけど、構造ってそれほど作者が意図的にコントロールできるものでもない気もする。例えば「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」をあのテーマで書こうと思ったら、それは必然的にあの形式で書かなければならなかったし。「ジェンダーはクローゼットをあけて今日はこの服を着ていこう、と決められるようなものじゃないのよ」と心の中のジュディスが囁く。そうなんだよなあ。僕は「世界の終わり」があの形式だから好きなんであって、それは別の形式の小説が嫌いだっていう意味じゃない、女性で・異性愛で…のAさんがすきなのと同時に男性で・同性愛者で・沖縄出身で…のBさんがすきでいられるように。少なくともそうありたい。アイデンティティにコミットしないというのはアイデンティティを無視するということじゃなく(そんな反動的な!)、矛盾するアイデンティティを面白いと思って引き受けたり受け入れたりできることだと思う。そうやって生きていきたいし、そんな風にして全てを愛せるくらい愛に溢れた人が好きだ。そんなことを思いながら、何故だか全く逆の意味のことを口走っていた俺万歳。明日から素直に生きます。
- 作者: ベルクソン,Henri Bergson,中村文郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2001/05/16
- メディア: 文庫
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自由 │ 必然性(決定論)
時間 │ 空間
質 │ 量
相互浸透性 │ 不可侵性
持続 │ 空間化された時間
多様性 │ 均質性
この図のうち左側がいいもの、右側が(近代主義と共に加速していく)悪い奴らとなっている。我々は自分の感覚や時間感覚、あるいは意識について右側に引っ張られていってしまうけれど、それはよくない、とベルクソンは繰り返し繰り返し主張する。例えば目の前のライトをどんどんまぶしくしていくとき、僕たちはまるで定量化できるものとしての「まぶしさ」が大きくなっていくように考えるけれど、それは違う、と彼はいう。そう考えるとき僕たちは感覚を(数直線みたいな)空間メタファに頼って捉えているけれど、実際に僕たちが感じる感覚っていうのは空間化できないような質的なもの、内在的なものなのだ。
こうしてベルクソンは(割と怪しげな数学に頼りつつ)上の図式の右側の項をとことんこき下ろして左側の項を賞賛するんだけれど、ちょっと考えればこれってこういう図式と重なっているとわかる。
内在的なもの │ 超越的に測られるもの
差異 │ 同一性
(差異としての)身体 │ (牢獄としての)言語
こうやってみると、ベルクソンってモダンと言っていいのかはちょっと微妙な気もしてくる。いや、ポストモダンでは決してないんだけれど、ここで言っていることって殆どドゥルーズ・ガタリのいってることと同じような。ドゥルーズ読んだことないけど。