Clap Your Hands
水星さんにもらった新宿MAPLIESのケーキを三つ(レアチーズケーキ、焼きチーズケーキ、抹茶のモンブラン)一気食いしたら胸がむかむかする。
city country cityで買った曽我部恵一のautumn mellow mix(著作権的には真っ黒なコピーCD)は今みたら半分以上持ってる曲だったけれど、こうやってコンピレーションアルバムの流れの中で聴くと、アレンジさえ同じであっても、まるで髪形を変えた女の子みたいに、なんだかどきどきするような新しい発見に満ちていて幸福。
- 作者: Richard Powers
- 出版社/メーカー: Harper Perennial
- 発売日: 1994/05/01
- メディア: ペーパーバック
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幼児に向かって指を差し出すと、小さな紅葉みたいな手でぎゅっと握り締めてきて僕ってばもう胸キュン(大意)、みたいな詩を昔どこかで読んだような気がするけれど、affectionateに見えるその握り締める動作の裏には、勿論幼児の側の愛情なんかは存在しない。つかめるくらいの大きさのものが手の届くところに来たらとりあえずつかむ(そこでは「それ」を対象objectとして認識するという働きさえない)、という幼児の生理的反応を何らかの欲望(好奇心とか)と読み込んだとき、そうした読みには常に既に読む側の(性的)欲望が染み込んでいる。そしてラプランシュの言うように、幼児としてはそうした大人の性的欲望を前にしてただただ圧倒されてしまい、それを内面化させられてしまう。あるいは対象関係理論的に言えば、幼児にとって最初の他者は父などではなく(そう想定することは母との「原初的な関係」を非他者関係とみることだが)、母の乳房であり、幼児は自分にとって謎として現れるそれに対して、そうしなければ生きていくことができないという理由から、それを愛させられる。これは没になった翻訳でバトラーがラプランシュらをひいて行っているギロンだが、ここで彼女らが主張するのは、欲望や無意識それ自体(主流派の精神分析が象徴秩序に対する内的殻と想定するもの)の他律性だ。そしてまさにこのとき、他者の欲望に汚されることで、欲望を持った(主体として認められる前の)「私」が現れる、というわけだ。
言い換えれば、ここでバトラーらが示しているのはイノセンスの原理的な不在性だ。パワーズではそれに対し、「私」や小他者を幼いときにおぞましい欲望にさらされたものとして見ることから(彼においてこの世界の閉塞性とは、監禁されアブダクトされるおぞましさのアレゴリーをとる)、汚される前のイノセンスを求める方向に物語が向かう。そして、パワーズを読むときの喜びのかなり大きな部分はそれを味わえるかどうか、という点に架かっている。高橋源一郎の『ガラティア2.2』の書評が非常に顕著な例だけど、「ヘレン(同書のヒロインであるAIの女の子)は今世紀の小説で最も魅力的な女の子だ」というとき、それは「綾波レイより素敵なキャラはいない」ということと殆ど同義語だ*2。イノセントでintactなものを美しいと思うこうした欲望が、ロリータ・コンプレックスと完全に同一であることは、別にJames Kincaidらの議論を引かなくても綾波レイの例なんかを出せば一目両全だ。
パワーズ小説を現象として、この社会のepidemicとしてカルスタ的に読むならば、発見されたイノセンスが常に他者の欲望に汚されている(その不可能性)ことを言うよりも、「イノセンス」を探そうとする目自体の欲望ぶりを突き詰めたほうが面白いかもしれない。USA Todayの『さまよえる魂作戦』書評にはこうある。
もしあなたに子供があり、あるいはいずれ子供を持つなら、子供を知っているか、子供であったことを覚えているなら…『さまよえる魂作戦』を読んでみるんだ。これは、未来に向けて寝床で聞かせる物語(bedtime story)だ。
*1:こう書こうとするといつも「ハーメルンのバイオリン弾き」とどっちが正しかったのか一瞬悩んでしまう。いいマンガでした。
*2:ってかここまで書いてから気づいたけど、『ガラティア2.2』のリチャード/C./ヘレンって殆ど『エヴァンゲリオン』のシンジ君/アスカ/綾波だよな、とライトオタクっぽい感想。