Saudade
日本語を母語としない人と結婚できるか、という話になった。日本語でさえ、どんなに伝えようとしても伝えきれない、どんなに判ろうとしても判りえない残滓があるのに、それを(自分か相手の少なくともいずれかにとっての)非母語でやっていく自信なんてない、という話。けれど言葉はいつも一言多すぎるか少なすぎるかのいずれかであって、愛の言葉であれ追悼の言葉であれ僕達には無様に喋りすぎるかラディカルに黙り込むかしかない。語る端から、感傷めいてしまい、ぶっきらぼうになってしまい、上手く喋れない。だから僕は、たとえそれがいかに不謹慎で無様であっても、話し続けようと決めた。「喋れ、喋れ、どうせそれしかできないんだろ」。喋れ喋れ喋れ。語れ語れ語れ。書け書け書け。こうして書いていく端から言葉はどうしたって下手糞な冗談のようになってしまうから、もし僕を読んで笑ってくれるのだとしたらそれはどんなに嬉しいことだろう。同じ悲しみの何がしかを分有する―と、失礼ながら勝手に思い込んでいる―書き手の言うように、僕にできることといえば、これからも読んで、また、書いていくだけだ。
水星さんの買ってきてくれたケーキをcity country cityに置き忘れ(冷蔵庫にしまって取っておいてくれた。city country cityは素晴らしい店です)、夜は穏やかに過ぎる。
[最近読んだもの]
バトラーが強情なこととラクラウがねちねちした性格だということとジジェクが能天気だということ(これは知ってた)が判った。バトラーの精神分析批判は、一言で言えばそれが想定する「(象徴界の裂け目としての)現実界という斜線によって主体が構造的に常に不可能になっている」という構図が文化を捨象する(歴史主義的でない)というもので、それに対して残りの二人は①抑圧された現実界は、それによって象徴的歴史を成立させるという意味において「非歴史的な」ものであり、②(これは特にジジェクだが)またバトラーの現実界の理解はそれをあまりに物質化しているが、それは象徴秩序の内的破綻(不可能性)という状態の名なのだ、というもの。精神分析がいかにして歴史的なものと関係を持ちうるか、というのは最近気になっているテーマだが、ここでのジジェクの態度はやや安易だろう。特に批判②に関しては、そういいながらジジェクの言う「現実界の堅い殻」という言い回しは明らかにそれを物質化する傾向にある。バトラーの言うように、そうされた時点でそれは象徴されてしまっているのだ、という批判もどうかと思うけれど。
個人的にはラクラウのバトラー批判―色々あるけど、一言で言えばバトラーはあまりにも概念をゆるく使いすぎだという批判(例えば主体という言葉で彼女は法学的、精神分析的、そして勿論フーコー権力論的…なものの意味を担わせていたり、「社会」あるいは「文化」と言う言葉を定義せずに用いたりと)は、むしろバトラーの視野の可能性となりえるのではないかと思う。彼女の言う「文化翻訳」概念はまだちょっとよくわからないけれど。
現代思想2006年10月臨時増刊号 総特集=ジュディス・バトラー 触発する思想
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ジャン=ルネ・ユグナン『荒れた海辺』(はまぞうなし)
五回目くらいの再読。恋愛小説はこれ一冊読めば十分だと思う。
ポルトガルの海―フェルナンド・ペソア詩選 (ポルトガル文学叢書 (2))
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ある者であることは牢獄だ
僕であることはなにものかでないことだ
僕は逃亡者として だが
生きいきと生きるだろう