Light As A Balloon
夜、エイミーさんと長電話。痛い男の話でしばらく盛り上がった後、全然他人事じゃないと気づいてから笑いが引きつる。眠れない夜はブロッコリーを茹でる。オリーブオイルとローズマリー、キッチンテーブルで読む小説はなぜか入り込みやすい。
- 作者: アーザルナフィーシー,Azar Nafisi,市川恵里
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2006/09
- メディア: 単行本
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(師匠に言わせればおそらくあまりにアイデンティティ・ポリティカルなのだが、)「テヘランでロリータを読むこと」は、おそらく他の場所・時でロリータを読むこととは違う経験だ。前に書いたような距離を感じながら、僕は痛烈に(自分にとってのもう一人の師匠である)N先生の「同一化することなんて簡単なんだ」という言葉を思い出していた。
人生を奪われ、自らの身を守る言い分も与えられず、看守と親密な共犯関係を作らされている彼女らに、「今ここ」にいる僕達が自分自身を重ねて読むこと*1は危険なことであり、おそらくは単なるナルシシズムに過ぎない。本書において著者が再三指摘する共感あるいは想像力なるものは、無論そういったものであっていいはずはない。彼女らにとっての想像力は単なる現実逃避ではなく、全体的なものへの抵抗、読むという営みの政治化されえないsingularityあるいは個人性という抵抗だった。それはおそらくは達成不可能なもの、ベクトルであって、その不可能性が読むという快楽の一部なのだろう。
では、彼女らの「物語」を僕達が読むことはどういう経験なのか。それもまたある種の不可能な共―感ではないのか。「わかりあえやしないってことだけをわかりあうのさ」。その意味で、あらゆる小説はそれ自身についての小説であるように、あらゆる「読み」はそれ自身についての「読み」ではないのだろうか。そうして読んでいく中で、