Light As A Balloon

夜、エイミーさんと長電話。痛い男の話でしばらく盛り上がった後、全然他人事じゃないと気づいてから笑いが引きつる。眠れない夜はブロッコリーを茹でる。オリーブオイルとローズマリー、キッチンテーブルで読む小説はなぜか入り込みやすい。

テヘランでロリータを読む

テヘランでロリータを読む

著者は元テヘランの大学の英文学者。抑圧的な大学当局に嫌気が差して辞職後、自宅で元教え子の女子学生7人と読書会を開き、ナボコフフロベール、ジェイムズ、オースティンなどを読む。本書はその日々の回想録が、文学批評、ないしイラン社会史の枠に入り込みつつ綴られる。
(師匠に言わせればおそらくあまりにアイデンティティ・ポリティカルなのだが、)「テヘランでロリータを読むこと」は、おそらく他の場所・時でロリータを読むこととは違う経験だ。前に書いたような距離を感じながら、僕は痛烈に(自分にとってのもう一人の師匠である)N先生の「同一化することなんて簡単なんだ」という言葉を思い出していた。
人生を奪われ、自らの身を守る言い分も与えられず、看守と親密な共犯関係を作らされている彼女らに、「今ここ」にいる僕達が自分自身を重ねて読むこと*1は危険なことであり、おそらくは単なるナルシシズムに過ぎない。本書において著者が再三指摘する共感あるいは想像力なるものは、無論そういったものであっていいはずはない。彼女らにとっての想像力は単なる現実逃避ではなく、全体的なものへの抵抗、読むという営みの政治化されえないsingularityあるいは個人性という抵抗だった。それはおそらくは達成不可能なもの、ベクトルであって、その不可能性が読むという快楽の一部なのだろう。
では、彼女らの「物語」を僕達が読むことはどういう経験なのか。それもまたある種の不可能な共―感ではないのか。「わかりあえやしないってことだけをわかりあうのさ」。その意味で、あらゆる小説はそれ自身についての小説であるように、あらゆる「読み」はそれ自身についての「読み」ではないのだろうか。そうして読んでいく中で、僕達(この表記もなんか今更くさくて恥ずかしいな)はいかにして、weあるいは複数形のyouを設定せず、単数のyouと出会い続けることができるのだろうか。最後の言葉の誘惑に抗い続けるのだろうか。どうしたらこの読みを越えることができるのだろうか。

*1:ローティ的に、あるいはパワーズ的に自分もまた閉じ込められた存在であり(あるいは私の中にも他者がいることを発見すること、その意味において他者と私に繋がりを見出すこと