Writes of Passage

N先生と修論の相談。ゼミ中、論文とは直接関係ない文脈だが、「プロとして、疲労困憊しているときでも論理的でわかりやすい文章が書けなければダメだ」との発言にかなりショック。考えてみれば当たり前なのだれど、疲れてくるとびろーんとかどーんとか(とか、というのもそうだけど)語彙が腐ってくるから困る。それから他に見られる症状としては会話が成り立たなくなることが挙げられます。これって普段あまり喋らない人とだと穏やかさと見てもらえるのだけど、普段わりとよく話す人とだと白々しさとして現れたり,何か伝えたくてもうまく伝えられなかったりしてほんとに我ながら情けない。全てのコミュニケーションは誤解だ,と言いたくなる誘惑。

不平等の再検討―潜在能力と自由

不平等の再検討―潜在能力と自由

人間の多様性と、「平等」のあり方(あるいはその基準)の複数性を前提としつつ(タイトル通り)「不平等を再検討」するにあたり、著者センは本書で「潜在能力アプローチ」という手法を提言する。「潜在能力(capacity)」とはある人が選択することの出来る「機能」の集合として定義される。ここで従来の(単に所得のみを基準とした)貧困の尺度はある人が得られる所得や資源を「潜在能力」に変換する力が個人によって(そのジェンダー、階級、居住地域、障害の有無etcによって)異なることを見過ごしている点が問題だ、というセンの指摘は、とりわけ固定化してしまった不平等や貧困を考える場合には重要なものとなる。
「願望の達成」を福祉をはかる際の(その効用を軸とする)アプローチとすることは、「すっかり困窮し切り詰めた生活を強いられている人でも、そのような厳しい状態を受け入れてしまっている場合には、願望や成果の心理的尺度ではそれほどひどい生活を送っているように見えないかもしれない」(77)ため問題であるとセンは指摘するのだが、これはフーコー的な権力観での主体の主体性(あるいは自律性)の問題とも絡みつつ、とりわけ現在の日本では障害の問題等を考える上で非常に興味深い。
以下、直接は関係ないけれど数日前にエイミーさんと久しぶりに長電話したときひと月ほど前に書きかけで消えてしまった文章を思い出しつつギロンしたこと。
 
批評理論として見た場合の障害学は、それこそフーコー的な身体観から「障害」なるカテゴリの構築性を指摘し、(とりわけその歴史性に着目しつつ)認識的差別を批判するという立場をとることになるのだろうが、他方これは現実レベルで障害を持つ人が少しでも生活しやすくなるようにという技術的・政策的努力とは切り離せない、ということは忘れられてはならない。もちろん、フレイザー・バトラー論争に見られるようにこれは障害学に限らずフェミニズム等にも共通する問題なのだけれど、とりわけ障害学の場合にはそうした「障害」カテゴリの構築性(例えば「車いすを使わないと移動できない」ことと「メガネがないとものが見えない」ことの本質的違いはあるか、とか)が技術的・経済的次元で比較的容易に(解決とは言わないまでも)解明しうる可能性を秘めている(例えば全ての階段にスロープを付けたり)という点から、色々複雑な問題も生じてくる。
例えば少し前に話題になったES細胞とそれを利用した再生医療について。こちらあるいはこちらで述べられているように、仮にES細胞を利用した再生医療によってある種の「障害」が「治療」できる可能性がうまれたとして、それによって「障害」が「治されるべきもの」とされてしまう認識的暴力には常に気を配らなければならないけれど、他方それによってある一定の人たちの生が生きやすくなるということは誰にも否定できないし、それを妨げることなど誰にも(おそらく他の「障害者」にも)できない。これって例えば聴覚「障害」を持って生まれてきた子供に日本手話を「必ず」教育することが日本手話ナショナリズムなのか(その子供が自分で書記日本語を第一言語として選択する自由はあるのか)という問題とも連関してくると思うのだけど、はっきり言ってそれを否定することも肯定することも今の僕にはできないのだ。