100 Ways To

J.M.クッツェーが来る(初来日)というので、微妙に熱っぽかったけど国際ベケットシンポジウムの公開講演に行く(今年は年始からバトラー、パワーズに続き憧れの人が沢山来て嬉しい)。普通の背広に白シャツ、深紅のネクタイといういでたちのクッツェー氏は、率直な印象としては「エンピツ先生」といった感じ。エリザベス・コステロとして喋るのかなあとの期待もはずれ、講演はごくスタンダードだった。以下、簡単に概略(途中うつらうつらしてたのでわりとあやふやですが)。
 
"Eight Ways of Looking at Samuel Beckett"
ベケットにおいては心身の二元的構造が世界の不安感、あるいは不条理さのもとである。よって彼は二元的説明に対してアンビバレントな態度をとる。
②そのため彼においては「考える生き物」としての経験が日常においてとどまることなく繰り返される。
③かくして彼は一元論(ここでは精神一元論)を単に二元論から身体的次元を差し引いたものとして棄却する。心的なものは環境への適応から生まれる。これは進化論に象徴される19世紀後半の文化的ペシムズムの中に彼を位置づけることを可能にする。
④ここで彼と『白鯨』を比較することは有用である(というか、彼には「白鯨」的なものが欠けている)。メルヴィルにとっての悲劇はベケットにおいて喜劇となる。エイハブのモリが突き刺す額の後ろにある動物(鯨)の脳は、もう一つの宇宙なのだ。
⑤猿を使った実験で我々が明らかにしようとしたことは、状況の理解不可能性であり、「自分は合目的的な何か(something)の一部なのだが、それが何を意図しているのかよくわからない」という状況である。
⑥大事なのは、世界のルールのそうした理解不能性をいつ理解するか、すなわち「いつ理解しようとするのをやめるか」だ。実験室の猿同様檻に閉じ込められた我々は宇宙/神(god=ゴドー)を待つが、それは真剣に待っているわけではなくぶらぶらしながら待つようなやり方で、神はそれを理解していない。言い換えれば、神は私の心身の完全な連続性を信じるが、私にとってそうしたデカルト的反省は存在しない。
ベケットは1937年にケープタウン大のイタリア語の講師の募集に応募したことがある。
⑧真の芸術家はmisfitなものだし、我々は語学教師をやっているベケットは想像しづらい。しかしカフカが会社員をやっていたように、我々が創造するような心身の完全な一体性など存在しないのだ。
 
最後と『白鯨』の件は正直ぼうっと聞き流してしまったけれど、だいたいこんなことを言ってたような気がする。講演後、知り合いの先生方がいないことを確認後こっそりとサインをもらう。会場を後にすると小野正嗣さんに会う。名前を覚えてもらっていて感激。嬉しくてなれなれしく話しかけてしまった。