She Calls Herself Natural Beauty

19h30@立川中華街。カマキリくんとジェイさんと、翻訳の完成を祝って。僕とカマキリくんは修論発表会の影響で酒が飲めないぶん、食べる。羊飯と海鮮おこげが美味。給料が出たので新しいヘッドホン(レトロっぽい白のパナソニック)を買うと、世界が変わった。二人と別れて二時まで研究室でGrant Green聴く。

トラウマへの探究―証言の不可能性と可能性

トラウマへの探究―証言の不可能性と可能性

バトラー読んだあとだとカルースは議論的にややゆるいけど、クールダウンとしては丁度いい…と思いながら読んだら、思いのほか収録論文が面白い。ランズマン講演(「理解することの猥雑さ―クロード・ランズマンとの夕べ」)はナチ医師についての映画の上映会に参加を拒否した理由についてのもの。ランズマンのいうアウシュビッツの「出来事性」とアレント的な悪の凡庸さの関係は彼が言うほど単純なものなのかはやや疑問(ランズマン自身も自覚してるみたいだけど)。アメリカのエイズアクティヴィスト達の対話(「エイズ危機は終わっていない」)のキンバリー・バーガリス表象批判(あるいは非PWAの「わたしたち」の同一性からしか感情移入が出来ないこと)も興味深い。
しかし何より衝撃だったのがショシャナ・フェルマンの「教育と危機、もしくは教えることの波乱」。証言のパフォーマティヴの教育は、それ自体単に認知的(あるいはconstative)なだけではなく行為遂行的で、「理解」を越えていなければならない。そうした態度は確かによく理解できるものだけれど、実際にそれを実行できる教師が何人いることか。しかしここでフェルマンの示す講義は、本を読んでいるだけの僕も時に涙し、時に胸が痛くなって何一つ出来なくなるくらいの衝撃を持っている(マラルメの自由律論とかツェランとか単純に勉強にもなった)。それを通り抜けた学生達が言語の喪失を経験し、フェルマンやら周囲の人やらに講義について「とにかく話したくなり、けれど話せないことを見出した」のもむべなるかな。それに対しフェルマンはその最後の講義で、ツェラン的にその喪失感―言葉しか残っていないというなかから、「あらゆるものが失われた中で、このひとつだけは残っている」言葉で語ることを教えてその講義を締めくくるのだが、いや、こんな講義に関わることができたら幸せだろうな。ほんと。