Making Sense of Yourself

久しぶりに本屋探索@吉祥寺LIBRO。relaxが今月(来月?)で休刊らしい。どうも最近のマガジンハウスの方針はようわからん。ku:nelも今ひとつだし。ぶつぶつ。
急にビートな気分になりブローティガンやらケルアックを購入。高橋源ちゃんのブローティガンの解説(彼の自殺について)を読みながら、小説家が自身の生を生きるとはどういうことなんだろうとぼうっと考える。もちろんギュンター・グラスを念頭においてだが、死した後にも自分の生に(仕事に、ではない)否応無しに意味付けがされてしまい(それは誰でもそうだけれども)、それについて生きている間から判っているっていうのはどういうことなんだろう。
20h00@スーペルバッコ。赤ワイン二杯、南瓜のオリーブ漬け、炭酸入りのミネラルウォーターで500円は破格(しかもこれが普通の値段なのです)。ここのハウスワインは赤白共に果実の瑞々しさが凝縮された感じで、若いワインとしてはかなり好みの味。ブローティガンを読んでいたら、立ち飲みのカウンターで隣に立っていた女性に話しかけられる。

愛のゆくえ (ハヤカワepi文庫)

愛のゆくえ (ハヤカワepi文庫)

実は恥ずかしながら今まで読んだことがなかった。『鱒』の人、というのと、ビートニクの最後の輝きの人、というイメージだったのだけど、思った以上に小説らしい小説。というかベタな読み方をすると引きこもり系文学。うん、好きだ。
世界中の無名の人(その中には「リチャード・ブローティガン」なる人物も含まれる)が書き上げた、その人だけの本。それは誰にも読まれることはない。ただ一人、それを収める図書館の司書―「わたし」以外には。誰かの小説、というよりその人の人生を読む「わたし」の幸福な引きこもり生活は、しかし、自身の身体の美しさを厭うヴァイダが転がり込み、妊娠したことで終わりを告げる。彼らは、小説のタイトル(原題は「堕胎―歴史的ロマンス、1966年」)通り堕胎手術を受けるためメキシコへと旅立つ。そして、「わたし」にとって思いがけないことに―もちろん、読者にとってはとっくに予想されたように―、二度とその幸福なひきこもり生活に戻ることはない。
前述のようにブローティガンを読むのはこれが初めてで、いやカーヴァーっぽいこととかもっと言えば春樹っぽいこととかは知っていたけれど、それでもビートという言葉でイメージしたある種の熱からははるかに遠いところにこの「わたし」はいる。それは―多くの春樹の作品がそうであるような―誰かへの(この場合多分小説を書く人への)優しさに基づいた、「社会」からの距離のとり方だ。で、うまく言葉にできないんだけれど、①そうしたある種の「丁寧さ」(言葉を変えると自分を守ろうとするような優しさ)を持った主人公(しばしば、ていうか殆ど男性)の小説が60年代に登場したのって、(モダニズム後期からポストへの転換期だっていう以外にも)歴史的な必然性を持っていたんじゃないかと思い、②そうした形象が消費されつくしたからかわからないけれど、最近はそれってあまり流行らない気がする(春樹は相変わらず人気だけれど、明らかに人物造詣がそうしたものから少しずつだけどずれてきている気がする)。なんでだろう。
  
帰宅、TSUTAYAにてこないだ外苑前のカフェで耳にしてからなぜか無性に聞きたくなっていたカーディガンズを借りる。新鮮な魚が食べたい。