How to Pretend Not

16h30@cafe apres-midi。語学の授業をサボってお茶。夕方のapres-midiの窓(通りに面したほうじゃなくって隣のビルとの間にある細い窓)は水族館みたい。Yo La Tengo "I AM NOT AFRAID OF YOU AND I WILL BEAT YOUR ASS"購入。幸福。
ここ何日かで読んだ本を。

Precarious Life: The Powers of Mourning and Violence

Precarious Life: The Powers of Mourning and Violence

翻訳の下準備として再読。バトラーの仕事は大きく分けて(Gender Trouble以降の)クィアスタディーズ系の仕事と、(Antigone's Claim以降の)倫理系の仕事があると思うが(しばしば多くの本がその両方にまたがるものだけど)、これは主にExcitable Speech、Psychic Life of Power(特にメランコリー論)辺りの議論をより現在の政治にスペシフィックに見ていったもの、といえばいいんだろうか。再読するとGiving An Account of Oneselfで言っていること(レヴィナス的な、主体の脱構築に基づく他者性に向けられた倫理)は大体ここで言っている。自己の被傷性に気がつくところからいかにしてナルシシズムに浸らずに他者の被傷性に目が向くか、というのがやっぱり(ローティらを含めたある種のリベラリズムの)最大の問題と思うけれど。世界において暴力が非対称的に配置されているということに目を向け(させ)るのに、今の所我々は(Spivakでさえも)想像力に託すしかないわけで、これを刺激することって人文系の研究をする人にとってある意味で一番大事な仕事なのかもしれない。

マオ2

マオ2

実を言うとデリーロがあまり好きではないのは、どうしてもこの人を論じる言葉ってベンヤミンだったりボードリヤールだったりを殆ど必然的に経由しないと(たとえ全然関係ないことを論じたくても)論じ得ない…ような気がするからで、それって単に僕の気が小さいからかもしれないけれど、どうもあんまり研究して楽しそうじゃない。研究者に限らず、小説好きの友達同士で集まってるときでも(というかデリーロ読んでる人が数人集まって文学研究の人が一人もいないっていう図も想像しづらいが)、「メディア」とか「アンディ・ウォーホル」とか誰かが口走りそうで怖い。あまり大きな声ではいえないけれど、デリーロ好きな人には理論オタクが多いしね。
今の所デリーロの代表作の一つであるこの小説は、テロリストらによる誘拐事件、カリスマ作家(メディアに出ないことでカリスマ的人気を誇る)の失踪、その助手の愛の物語辺りがくるくると入れ子上になっている物語で、こうやって書いてみるとPowers, _Plowing the Dark_みたいだけれど実際割と似ています。でもデリーロの方がちゃんとポストモダン小説していて、解決は与えられないしカタルシスもあまりない。それゆえ逆に「肖像写真」のアウラ、創造と(どこかにあるかもしれない)真正さに賭けているところもあって興味深い。友人に聞いたところ、お茶大の院では今「テロ小説」批評の一貫としてこれを読んでいるらしいです。でも(この小説が書かれたのは1991年なんだけれど)NYを舞台にしつつWTCビルがテロ小説であるこの本の要所要所でいい味を出している辺りは、さすがという気がする。あとやっぱりこの人設定の作り方(舞台が1989年だったり、「群集」を最大のモチーフとしながら主要登場人物の一人がカルト宗教にはまっていたりとか)はうまい。うますぎるがゆえにあまりにかっちりと枠にはまっていて、論じるに当たって妄想力の飛躍があまり許されていない辺りが好きじゃないんだ、と書いていて気がついた。まあ、そういう感じです。